礼拝のメッセージ 2009年9月
「パウロの働き」 イザヤ書46:3、4 伊藤 牧師
2009年9月27日
病気のときには、健康がどんなに感謝なことか、しみじみ実感します。健康は与えられた賜物です。神様からのプレゼントです。なぜなら胃の調子でも、心臓の調子でも手足の調子でも、食べ過ぎないとか、からだを酷使しないとか、適当な運動をするとか気をつけることはできても、根本的には自分ではどうにも調整できないからです。
わたしたちが教会に来られることも、聖書を読めるのも、当たり前のように思ってしまいますが、そうではありません。極端なことを言えば、教会がなかったら、聖書がなかったらそうはゆきません。お祈りも同様です。イエス様によって救われたので、いつでも、どんなことでも神様に親しくお祈りでき、神様はいつくしみ深く常にわたしたちを助けてくださいます。
こんなすばらしい恵みに入れていただいたのは、イエス様の救いというグッドニュースが届いたからです。届けてくださった多くの人々がいました。時代を遡って、パウロもそのひとりです。彼は「異邦人」のために福音を届ける、神に遣わされた働き人でした。 (市川)
「神様に背負われる人生」 イザヤ書、46:3、4 伊藤 牧師
2009年9月20日
館林キリスト教会では、敬老の日に一番近い日曜日を「敬老礼拝」と定めて、七五歳以上の方々に感謝を込めて記念品を贈り感謝の意を表し、祝福をお祈りしている。
館林キリスト教会は、生き生きした高齢者の方が多いと思う。これは神様の大きな恵みであり、素晴らしい証となっている。多くの高齢者の方々が励んで礼拝に出席し、賛美をささげ、御言葉に聞き入っているのは本当に嬉しい。これらの方々の存在は、教会の宝である。
旧約聖書、イザヤ書四十六章三、四節には「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、わたしに聞け。
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。」とある。このみことばを一口で言い表すならば「高齢者は愛されている」という事だろう。
今朝は、高齢者として「神様に背負われる人生」の祝福をお話したい。(伊藤)
「神の言を土台に生きる」 マタイ福音書、7:24〜27 伊藤 牧師
2009年9月13日
建築物には基礎工事という土台造りがあり、学校には教育基本法という教育の土台があります。
草や木には「根」があり、これが無いものは「根無草」と呼ばれ、あやふやな人生の代名詞になっています。
人は、古今東西、老若男女「何を土台として生きるか」ということを探し続け旅をしている、と言われたりします。
ある人は、自分の人生の土台に、「健康」をあげ、またある人は「お金」をあげます。しかし、誰にでもなくてはならぬ人生の土台は、「生き甲斐」だと思います。「生きていて良かった」という生きる喜びです。これを持てなかったら、健康でも、お金があっても、本当に満足した人生を送れないからです。
イエス・キリストが話してくださった有名なお話に、「二つの家のたとえ話」があります。これは昔から、人が求めてやまなかった「人は何を土台として生きれば良いのか」という問いに対する明確な解答だと思います。
今朝は「神の言を土台に生きる」、賢い生き方についてお話します。(伊藤)
「アンテオケ教会の誕生」 使徒行伝11:19〜21 伊藤 牧師
2009年9月6日
「迫害、これは伝道を盛んにして行
くための良薬である」と言った人がいます。確かに、ステパノのことで起こった物凄い迫害のために散らされて行った人々が、みことばを宣べ伝えながら巡り歩いた結果、サマリヤ地方に福音が増え広がり、救われる人々が起こされていきました。また、ピリポの伝道による一人のエチオピア人高官の回心もありました。
一方、カイザリヤにおいては、使徒ペテロの伝道を通して、異邦人コルネリオとその家族が回心しました。その結果、異邦人伝道は、このアンテオケの町において全くの新しい規模における集団的回心へと発展していきました。
そして、アンテオケで救われた人々が教会の有力なメンバーとして伝道と奉仕に励んでいったのです。この教会が、異邦人の世界で最初のアンテオケ教会なのです。アンテオケ教会はわずかの間に急成長しました。その祝福のカギは、宣教の情熱と愛のわざだと言えます。
今朝は、「アンテオケ教会の誕生」のいきさつとそのあり方を学び、この教会に習っていきたいと思います。(伊藤)