館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2009年8月

「神の家族」 エペソ人への手紙2:14〜16 市川副牧師 

2009年8月26日
 神様の選びの民イスラエルすなわちユダヤ人には神様のみ言葉、律法が与えられました。神様の目的を果たすために導かれてきました。
 ユダヤ人以外の民、すなわち異邦人は、もともと、律法もなく、真の神様を知ることもできず、神様に背を向けて歩んできました。ユダヤ人からみれば神様の祝福の約束の外の民、それが異邦人なのです。たしかに、真の神様を知らないのですから、滅びる以外にない、希望のない人々なのです。
 しかし、神様の救いのご計画はユダヤ人から始められ、福音は、異邦人へと届けられたのです。日本人である私たちが救われたのも、神様のこのようなご計画によるのです。
 互いのあいだにある敵意という隔ての中垣を、キリストは取り除いてくださいました。神様を「お父さん」と呼ぶ、神の家族にしていただきました。国籍や言葉は違っても主にあってひとつなのです。このように救われた人々の集まりが教会なのです。      (市川)

「神は愛である」 ヨハネの第一の手紙4:7,8 宮田 政信 

2009年8月23日
 「愛」という「言葉」は、聖書の中には沢山出てまいります。
 聖書そのものは、「救いの書」だと言われておりますが、聖書の中心的な教えは、さばかれる以外に何も受ける資格のない私たちを神が愛しておられるという教えであると思います。ですから「愛の書」といってもよいと思います。
 聖書の中で「愛」について書かれている箇所は、第一に、コリント人への第一の手紙十三章があげられると思います。「愛の憲章」として親しまれ、結婚式でもよくとりあげられています。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」と結ばれています。またガラテヤ人への手紙五章二十二、二十三節には「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制・・」とあり、「愛」は御霊の第一の実であるといわれます。
 今朝は、沢山の「神の愛」について記されている中から「神は愛である」と神様の本質にふれておられる箇所から学んでみたいと思います。(宮田政信)

「奴隷から総理大臣へ」 創世記41:1〜8 伊藤 牧師 

2009年8月16日
 給仕役の長はヨセフの夢の解き明か
しのとおりに出獄できました。その時、ヨセフも牢から出られるように頼んでおきましたので、当然彼は、出獄できるだろうと思っていました。しかしそれが叶わなかったのです。給仕役の長は出獄した後、ヨセフのことをすっかり忘れてしまっていたからです。
 しかし給仕役の長は忘れても、神様は決してヨセフを見捨てず、忘れませんでした。神様は給仕役の長が、ヨセフのことを思い出さなければならない出来事を起こされたのです。
 あれから二年の時が経過しました。神様は、エジプトのパロ王に二つの夢を見せたのです。第一の夢は、肥えた雌牛七頭の後、やせ細った雌牛も川から上がってきて肥えた雌牛を食い尽くしてしまった、というものです。第二の夢は、一本の茎から七つの太った良い穂が出てき、その後からやせた七つの穂がはえて太った穂を飲みつくしてしまったという不気味なものでした。
 この二つの夢を解き明かしたヨセフは総理大臣になるのです。(伊藤)

「最も必要なものは何か」 マルコ福音書8:36,37 伊藤 牧師 

2009年8月9日
 キリストはここで「全世界」と「自分の命の価値」を対比させて語っています。
この「いのち」は「魂」とも訳せます。キリストが、一人の魂は全世界よりもまさると言われたのは、この「魂」が、死んでも滅びることなく永遠に続くものだからです。
この世の物を得るために「魂」を失うことがあるならば悲劇です。どんなに物が豊かであっても、困難の時には案外役に立たないし、また傷ついた心をいやしたり、孤独な魂を慰めることはできないのです。キリストは、この世の価値のあるものばかりに気を取られて、自分の魂のことがおろそかにならないようにここで教えているのです。
このようなわけで、人の魂が救われて永遠の命を得るのは全世界を得るよりも素晴らしいのです。そして、この意味を知って生きることはとても重要だと思います。
今朝は、この世界で最も必要なもの、すなわち「魂」とその価値について、ご一緒に学びたいと思います。(伊藤)

「救いのプログラム」 使徒行伝11:1〜3 伊藤 牧師 

2009年8月2日
 コルネリオに招かれたペテロは、そこで「救いの言葉を語りました」。この福音を語っている途中で、ペンテコステの時と同じ聖霊の賜物を彼らも受けたのです。ですからペテロは、はばかることなく、イエス・キリストの名によって異邦人のコルネリオたちにも洗礼を授け、彼らと交わり、食事もしたのです。
 ここに神様のみこころは、全世界の人々が救われることであるのを示されたのです。こうして神様の選民であるユダヤ人から全世界の人々へのステップが踏み出されていきました。
 それからペテロは母教会であるエルサレム教会に帰り、異邦人も救われたことの喜びを分かち合うつもりでありました。しかしこのことが、エルサレム教会では問題を引き起こしていたのです。割礼を受けている人たちが、割礼のない異邦人の所に行って一緒に食事したとペテロを非難したからです。そこでペテロは口を開いて、ことの次第を正しく説明したのです。
 今朝は、ここから神様の「救いのプログラム」を学びたいと思います。(伊藤)