礼拝のメッセージ 2009年7月
「異邦人コルネリオの受洗」 使徒行伝10:34〜38 伊藤 牧師
2009年7月26日
今朝は洗礼式が行われます。
洗礼とは、イエス・キリストを信じた者がキリストのからだである教会に加わるため、キリストに対する信仰を目に見える形で表明する儀式です。
使徒行伝10章34節以下には、ペテロが異邦人であるコルネリオ及びその他の人々に語った最初の福音の証と、説教が記されています。
人間の克服しがたい罪の一つは偏見です。そこでペテロは開口一番「神は人をかたより見ないかた」と語り始めたのです。神様は何れの民族、いかなる人をも等しく愛されるお方です。ペテロはコルネリオと会う以前に、神様からの幻によってこのことを示されていました。
ペテロの説教がまだ終わらないうちに、異邦の人々に聖霊が下り、彼らは異言を話し、神様を賛美したのです。人々は異邦人たちに聖霊の賜物が与えられたことを知って驚き、ペテロは彼らに洗礼を受けるように命じたのです。
今朝は、コルネリオたちが自分の罪を悔い改め、イエス様を救い主と信じ、洗礼を受けた次第をお話します。(伊藤)
「牢獄の中のヨセフ」 創世記40:1〜6a 伊藤 牧師
2009年7月19日
ヨセフがエジプトに奴隷として売られてから十一年の歳月が流れていました。無実の罪によって獄屋に入れられたヨセフは、そこで、いろんな人の境遇、事情を学ぶと共に、囚人たちのよき相談相手となっていたのです。
その頃、エジプト王の給仕役の長と料理役の長に、王様毒殺の嫌疑がかかり、二人はヨセフが監禁されている獄屋に入れられてきました。おそらく彼らが政治的陰謀にかかわっているという疑いによるものでしょう。
ある夜、二人とも意味のある夢を見ました。ところが監禁中の身のため、この夢を解いてくれる人の所へ行くことが出来ず、いらいらしていたのです。
その頃エジプトには、夢をある基準に基づいて解く占い師がいたのです。しかし、ヨセフは、夢を正しく解くことは神様の力によることであって、人間が作った解き明かしによるものでないと述べたのです。
今朝は、獄屋の中でヨセフに起きた出来事をとおし、神様の摂理の御手をご一緒に学びたいと思います。 (伊藤)
「神の作品」 エペソ人への手紙2:10 市川副牧師
2009年7月12日
「作品」は、それを作った制作者がいます。制作者が自分のイメージや目的にそって、作り上げたものが作品です。
聖書には「わたしたちは神の作品であって」とあり、わたしたち一人一人が「作品」であり、しかも神様が造ってくださったと記されています。神様はわたしたち一人一人を愛してご自分のお考えとご目的にそってお造りくださり、命と人生を備えてくださいました。
しかし、残念なことに、わたしたちは神様を知らずに、神様に背を向けてきました。神様を見失うとともに、生きる意味をも見失ってしまったのです。ですから時に、自分が偶然に、無目的に存在しているかのように考えたり、何のために生まれ、何のために生きているのかわからない、という苦しみを味わうのです。そして、一度限りの大切な人生を空しく過ごすことにもなりかねません。
しかし、キリストを知り、キリストを信じるなら、新しく造りかえられ、「神の作品」として造られた、本来の意味と目的にかなって生かされることができるのです。 (市川)
「異邦人コルネリオの回心(2)」 使徒行伝10:17〜23a 伊藤 牧師
2009年7月5日
ペテロがいま見た幻の意味を考えていると、神様はコルネリオからの使いを送って、その意味を悟らせました。
ペテロはこの時はっきりと、神様は、ユダヤ人であろうと外国人であろうと、神のみもとに招いておられることを知ったのです。あの人は汚れている、駄目な人間だなどと決めつけることは、神様の御旨を知らない愚かな人間であるだけでなく、神様に逆らう結果となることを悟ったのです。
そこでペテロは、コルネリオとその家族の人たちに、「神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。」(二十八節)と言い、また「神は人をかたよりみないかた」(三十四節)であると、はっきり述べ、彼らと親しく交わり、さらに、「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」(47節)と言って、彼らに洗礼を授けたのです。
今朝は、「コルネリオの回心」の二回目を学びたいと思います。 (伊藤)