礼拝のメッセージ 2009年6月
「パウロの祈り」 エペソ人への手紙1:17〜19 市川副牧師
2009年6月28日
エペソ人への手紙一章後半には、パウロの祈りが記されています。獄中のパウロが何を思い、祈ったのか、また、パウロの信仰の姿や、離れてはいても心にかかる兄弟姉妹、教会への思いの一端を見させていただくことができます。
神様がパウロに啓示してくださった、やがての時の御国の栄光、キリストにある恵みをも知らせていただくことができます。
私たちは、幸福を求めています。ささやかな幸福に喜び、励まされます。これも神様の慈しみです。しかしまた、パウロのようにひとり獄中にいてもなお喜びに満ちて生きる、ということもあり得るのです。これも測り知れない神様の恵みです。パウロは神様に近くおらせていただくという幸福に生きていました。
パウロが「あなた方の心の目を明らかにしてくださるように」と祈っているように、だれもが、この幸いな恵みを知らせていただき、神様に近くおらせていただくという幸福に生きることができたら、どんなに幸いでしょう。(市川)
「ヨセフの試練と祝福」 創世記39:1〜6a 伊藤 牧師
2009年6月21日
兄たちの憎しみによって、イシマエル人の隊商に奴隷として売られた青年ヨセフは、長い長い旅の末、エジプトへ連れて来られました。
エジプトに着いた隊商の一行は、ヨセフをポテパルというエジプト人に売り渡しました。彼はパロ(エジプト王の称号で偉大な家という意味)の侍衛長という、かなり位の高い役人でした。
やがて、ヨセフも環境にもなれ、エジプト語を学び、一生懸命、忠実に働きました。ヨセフの仕事は丁寧で、テキパキしていたのでしょう。主人のポテパルはヨセフをとても気に入ってしまいました。これはヨセフの努力と才能にもよることでしょう。しかし、創世記は、それをヨセフの功績として評価していません。この39章には、「主がヨセフと共におられた」という言葉が四回も繰り返され、それ故に彼のなすことをすべて栄えさせられた、と記しているのです。
今朝は、こうした試練の中で、主がヨセフと共におられて祝福して下さったことについて学びたいと思います。
(伊藤)
「あなたはどこにいますか」 創世記3:9 伊藤 牧師
2009年6月14日
神様によって最初の人アダムが造られ、続いてエバが造られました。彼らは創造主なる神様の戒めを破って罪を犯し、神様の御顔を避け、エデンの園の木の間に隠れていました。このアダムとエバに対して、神様の方から「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられた、と創
世記3章には記されています。
一般に宗教とは、人間が神様を探求する道と考えられています。しかし、実は探しているのは、人間よりも神様の側です。迷子が親を探し求めるとしても、探し当てるのは、親の側であるはずです。
イエス様が語られた「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」と言うのも、真の神様がわからず、挫折、焦燥、孤独などで、自分のおるべき位置が分からない人に対する、救いと回復の招きなのです。
こうした神様の愛の呼びかけは、幾千年を経て今日に至るまで、すべての人々に問いかけられているのです。
今朝は、「あなたはどこにいるのか」という神様の愛の呼びかけに一人一人が応答して欲しいと思います。(伊藤)
「異邦人コルネリオの回心」 使徒行伝10:1〜8 伊藤 牧師
2009年6月7日
10章は使徒行伝の中の分岐点に相当するところです。この後、キリストの福音が世界的な広がりを見せる分かれ目がここに描かれているからです。
実は、福音はすでに異邦人に対して開かれつつありました。ペンテコステの時にエルサレムに来ていた異邦人の改宗者、またサマリヤでの伝道がなされて、そこに住む人々が救われたこと、そしてエチオピアの宦官が救われたことなど、皆異邦人が回心した出来事でしたがこれらは例外的な事柄です。
しかし、このコルネリオとその家族が回心したことは決して例外的なことではないのです。これから福音が世界的な広がりを見せ、異邦人への門戸開放が行われていくという点で、重要な意味を持っているのです。ですから、使徒行伝の著者ルカは、あのステパノの説教の時にまさるとも劣らぬほどここにページを割いているのです。いかにこのことが重要であるかの表れなのです。
今回から、4回に分けて、「異邦人コルネリオの回心」についてご一緒に学んでいきたいと思います。 〔伊藤〕