礼拝のメッセージ 2009年2月
「ノアの箱舟」 創世記6:5〜8 市川副牧師
2009年2月22日
アダムとエバの家庭に最初の殺人という悲しい出来事が起こりました。その後家族は増え広がり、セツの家庭にエノスが生まれました。この時、人々は主の御名を呼び始めた、と聖書にあります。このセツの子孫にノアが生まれました。
時がたち、さらに人間が増え広がるにつれて、悪が地にはびこるようになったことが、創世記六章に記されています。
この邪悪な時代にひとりの人、ノアは「主の前に恵みを得」てその時代の人々の中で正しく、神とともに歩んだのでした。
神様はノアにみこころを明らかにしてくださり、罪の世界を滅ぼそうとなさっていること、これに備えて箱舟を造るようにとお命じになりました。乾燥地帯のこの地方で、神様のお言葉に従って懸命に建築している姿、そして出来上がった箱舟。これらはノアが心から神様を信じ従った証しでした。雨が降る七日前から命令どおり舟に入ったこと、長い洪水の期間のこと、みな、祈りつつ神様により頼んだノアの信仰の姿です。(市川)
「祝福してくださらないなら」 創世記、32:22〜30 伊藤 牧師
2009年2月15日
ヤコブは少しずる賢い性格の持ち主でした。ヤコブという名は、「かかとをつかむ」或いは「押しのける」から来ています。このヘブル語の「かかと」は「だます」という意味もあります。
ヤコブは家族と家畜を連れてヤボクの渡しを渡りましたが、彼ひとり戻って来たのです。それは彼自身に不安があったことと、霊的状態に不満を感じていたからです。そこで御使いと組打ちするような激しい祈りをしたのです。
彼の自我は強く、御使いをも押しのけるようでした。そこで御使いは彼のもものつがいを打ちました。すると彼は自分の足で歩けなくなります。つまり自我を砕かれた彼は、自分の力では生きられないことを悟ったのです。しかし彼は御使いを離さず、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」としがみついて祈り続けたのです。私たちの祝福を受ける秘訣がここにあります。
今朝は礼拝の後、定期教会総会が開かれます。私たちが祝福を受けるために、一つとなって、ヤコブのように神様に祈り求めていきたいと思います。(伊藤)
「将来と希望を与える神」 エレミヤ書29:11 伊藤 牧師
2009年2月8日
パスカルの「パンセ」の中に「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でいちばん弱いものである。だが、それは考える葦である」と言っています。
このパスカルの言葉は、人間の弱さと同時に、人間の決して冒されない尊厳を見事に言い表している、と言われます。
パスカルは小さい時から病弱であり、また生涯、身体に痛みを負っていた人だったそうです。それだけに「人間は一本の葦にすぎない」という言葉には、自らの体の痛みと傷の経験が深く関係していると言えるかもしれません。
しかし、そのすぐにでも壊れそうな人間には、限りない尊厳がある、そうパスカルは信じ、言明しているのです。
この「考える葦」という比喩をパスカルはどこからとったのでしょうか。いろいろ言われますが、イザヤ書四十二章三節の「また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく」のみことばがいちばん有力だそうです。
今朝は、弱い葦のような私たちに対する、イエス様の慰めに満ちた優しさについて学びたいと思います。 (伊藤)
「回心の援助者アナニヤ」 使徒行伝シリーズ(24) 使徒行伝、9:10〜12 伊藤 牧師
2009年2月1日
サウロ(後のパウロ)は、ダマスコ途上で復活の主キリストとの決定的な出会いを体験しました。
彼はこのダマスコ途上での体験によって、霊的生命の出発点は律法ではなく、キリストの十字架であることを知ったのです。
ちょうど同じ頃、主イエス様はもう一方で、ダマスコ在住の忠実なクリスチャンのアナニヤという弟子に現れ、ご自分のみこころを示されていたのです。
パウロがコロサイの教会に送った手紙の中に「自らは〔キリスト〕、そのからだなる教会のかしらである」(コロサイ一章十八節)とあります。
ですから救われたクリスチャンが、ある人は足に、ある人は手に、ある人は口、と主のために集まり、労しているのが教会の姿だといえます。
教会にはいろいろな方がお出でになります。そうした方々に対して、アナニヤのように回心へと導く働きに携わるのは尊いことです。
今朝は、サウロの回心の援助をしたアナニヤについて学びましょう。(伊藤)