館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2009年1月

「カインとアベル」 創世記4:1、2 市川副牧師

 2009年1月25日
 アダムとエバは、罪を犯したため、創世記三章の後半では祝福に代わってのろいの言葉を受けなければなりませんでした。さらにエデンの園にいることができなくなりました。それは神様の豊かな保護と祝福を、今までのようには受けられなくなった、ということを意味します。
 しかし、罪を犯したアダムとエバに神様は、動物の皮の着物を造って着せてくださいました。なんという大きな憐れみだったことでしょう。彼らはそのとき、初めて動物の死を見、流された血を見たのです。
彼らは、真の神様のお言葉を大切に守り、神様が教えてくださるように生きることがどんなに重要なことか、そして幸福なことか、身をもって経験したと思います。
 4章には、彼らの家庭に子供たちが与えられたことが記されています。アダムたちは、子供たちに真の神様への信仰と従順を教えたと思いますが、礼拝の姿勢に、子供たちがそれぞれ受け止めていた神様への心が表されたのでした。   (市川)

「ヤコブ、故郷に旅立つ」 創世記31:1〜3 伊藤 牧師 

2009年1月18日
 ヤコブが両親と兄エサウのもとを離れて、伯父ラバンのもとに寄留してから二十年が過ぎた。
  そもそもヤコブがパダンアラムに来た理由は、兄エサウの激しい怒りを避けるため、またカナンの娘でなく親族の中から妻を迎えるため、そして神様がアブラハムに約束されたカナンの地に再び帰ってくるためであった。
神様の守りと祝福のもとで、ヤコブの寄留期間は満ち、ラバンのもとを離れて故郷への旅が始まった。
逃げたヤコブに対するラバンの追跡に対しても、神様のご介入によって、お互いに契約を結ぶことが出来、証の石塚も築かれる。
こうしてヤコブは、二人の妻と一人の娘デナを含む十二人の子供たちを中心に、多くの財産を伴って故郷の地カナンへと旅を進めることになる。
このヤコブの姿の中に、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだをのばしつつ、目標を目ざして走る」(ピリピ三章十三、十四節)信仰者の姿を見ることが出来るような気がする。(伊藤)

「将来と希望を与える神」 エレミヤ書29:11 伊藤 牧師 

2009年1月11日
 「人生は出会いで決まる」と言われたりします。人との出会い、本との出会い、物との出会いで、自分の人生の方向が決まる人も少なくありません。
しかし、人は誰でも新たな出発をするためには、神との出会いを経験しなければなりません。
苦しみと悲惨な経験を通して、苦い教訓を学びました。できるならもう一度生まれ変わりたい、新たに出発点にたってやり直しができないだろうかと思って、日々の生活を送っておられる方もいると思います。
ユダヤ人の指導者ニコデモもそうでした。彼は周りの人々から尊敬を集めていました。しかし、彼は自分の生活に限界を感じ、困り果てていたのです。
キリストは、そんなニコデモの根本的な問題を見抜いて「だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われたのです。
このキリストとの出会いが、彼にとって「新たなる出発」となりました。
今朝は、この二人の対話を通し、私たちへの勧めを学びましょう。 (伊藤)

「ヤコブ、故郷に旅立つ」 マタイ福音書5:13 伊藤 牧師 

2009年1月4日
 イエス様はクリスチャンに対して「あなたがたは地の塩である」とおっしゃいました。
 ローマの諺では「太陽と塩ほど役立つものはない」と言うくらい塩は私たちの生活になくてはならないものです。
 塩は、塩素とナトリウムの化合物です。両元素は、ともに危険な性質を持っています。塩素から出る塩素ガスは、強く吸うと命とりになることもあるくらいの有毒ガスですし、ナトリウムも誤って指など触れるとやけどをしたり、水に濡らすと燃え出したりします。ところが、この危険な性質を持つ両元素が化合すると、一変して、人の命になくてはならない塩になります。
 お互いを傷つけ、社会に悪影響を及ぼすことの多い人間も、十字架のイエス・キリストを信じて受け入れると、罪が赦されるばかりか、清められ、社会になくてはならない地の塩と変えられていくのです。
 今朝は、このイエス様の教から、私たち一人一人が「地の塩」として生きることを学びたいと思います。   (伊藤)