礼拝のメッセージ 2008年7月
「新しいわたし」 コリント第二の手紙5:14〜21 伊藤 牧師
2008年7月27日
今朝は、洗礼式が行われます。
洗礼とは、イエス・キリストを信じた者がキリストのからだである教会に加わるために、キリストに対する信仰を目に見える形で表明するために行う儀式です。洗礼の方法については、この語が「浸す」(バプティゾー)という意味の関連する言葉からきていることで、新約聖書の時代には、全身を水に浸す方法で行われていたことがわかります。
しかし、それは原則であって、受洗する人の健康上の理由等がある場合には、父と子と聖霊の名によって頭に水を注ぐ「滴礼」という方法で行われることもあります。
このように方法はいろいろありますが、洗礼式を行わない教会はありません。そして、洗礼という儀式を通して、クリスチャンになったことを人々の前に公に表明するのです。ですから、洗礼は、新生の恵みの象徴といえます。
そして新生したクリスチャンには、神様のみ業によって、「新しい使命」が与えられるのです。
今朝は、この神様の恵みを学びたいと思います。 (伊藤)
「人間とは何か」 創世記25:19〜26 伊藤 牧師
2008年7月20日
ギリシャの都市テーバイの西の山に住んだスフィンクスは、道ゆく人に難問を吹っかけ、解けない者を取って食べてしまいました。その問いというのは「朝四本、昼は二本、夕には三本になる者は何か」というものでした。長い間この謎は解けませんでした。
ある日、そこを通りかかったオイデプスが、「それは人間だ」とずばりこの謎を解いたのです。
このギリシャ神話は「人間とは何か」という問題が、実はわれわれにとって最大の難門であることを示しているのです。哲学者ヘーゲルは「人間は意志的な存在である」といい、哲学者カントやデカルトは「人間は理性的な存在である」と言っています。
聖書は何と言っているかと言えば、創世記一章二十七節で、「神は自分のかたちに人を創造された」と教えています。
今朝は、二人の幼子の献児式があります。この赤ちゃんたちはご両親を通して与えられた神様の作品です。それゆえに、とても価値ある存在だと聖書は明言しているのです。 (伊藤)
「神の愛に輝いて生きる」 ヨハネの第一の手紙4:7〜12 伊藤 牧師
2008年7月13日
毎週私たちは、聖書の中からいろいろなお話を学びます。
使徒たちの働きについては、新約聖書使徒行伝から連続して話をしています。また、時々「救いについて」「聖書について」「悔い改めについて」というふうに、テーマを決めて話をします。
今日は、「神の愛」というテーマでヨハネの第一の手紙からお話します。
著者ヨハネは、あまりに怒りっぽい人だったので「雷の子」(ボアネルゲ)というあだ名がついていました。しかし、彼は神の愛によって、愛の人に変えられました。ですから、彼がエペソ教会の責任を持ち、晩年講壇で話した説教は、いつも「互いに愛し合いなさい」の一言だったという逸話があるくらいです。
ヨハネは、クリスチャンが互いに愛し合うこの愛は、川の流れが泉から流れ出るように、愛である神から出ている、と言うのです。そこで、クリスチャンの生活において、互いに愛し合うことの重要性を力説して書いたのです。
今朝は、「神の愛に輝いて生きる」ということについてお話します。(伊藤)
「ステパノの殉教」 使徒行伝、7:54〜60 伊藤 牧師
2008年7月6日
ステパノは、サンヘドリンやリベルテンの人々から、「神」を汚し、「モーセと律法」と「聖所」に逆らう言葉を吐いたということで捕らえられ、彼らに訴えられて議会に連れ出され、その理由を問い正されました。
これらの訴えに対して、ステパノは旧約聖書からイスラエルの歴史を通して、彼らの間違いと正しい意味を解き明かしたのです。
しかし、「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノに向かって歯ぎしりをした」(五十四節)のです。つまり、人々がステパノの説教を聞いた反応は、彼を殺す以外にないということでした。ステパノは、すぐにエルサレムの城壁の外に連れ出され、石打の刑に処せられて、殺されたのです。
ステパノは殉教する時、「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」という言葉を残しています。
この三つの言葉を手懸りに「ステパノの殉教」についてお話します。 (伊藤)