礼拝のメッセージ 2008年6月
「一つとなるために」 ヨハネによる福音書17:20、21 篠原貞雄兄
2008年6月29日
イエス様が地上で最後に語られたことは、どのような内容だったのでしょうか。「最後の宣教」と言われている箇所です。大切なことが凝縮していることは間違いないでしょう。
ヨハネによる福音書13章1節から17章26節が、それにあたります。「最後の晩餐」と言われる13章、「決別の教訓」と言われたり「最後の説教」とも言われる14・15・16章、「大祭司の祈り」と言われる17章です。
あまりにも大きすぎる十字架の前の箇所ですから、個人で読む場合などはすっと読み過ごしてしまうことが多いのではないでしょうか。特に、17章の祈りの記事などは大切なところなのですがイエス様の愛だけを感じてしまい、私たちのあり方までは考えが及ばず、大切なことを見過ごしてしまっていないでしょうか。
今朝は、イエス様の最後の祈りから、イエス様が私たち信仰者にどうあってほしいのかを学んでみましょう。 (篠原 貞雄)
「エステルの奉仕」 エステル記5:1〜3 市川副牧師
2008年6月22日
紀元前5世紀に、ペルシャ帝国を統治したアハシュエロス王はギリシャ名ではクセルクセス一世と言い、東はインドから西はエチオピアまで広範な地域を治めていました。
このペルシャ帝国に多くのユダヤ人が生活していました。モルデカイも養女エステルもそうでした。エステルは主の摂理のうちに王妃に選ばれました。
さて、王の重臣ハマンの悪計によって、今、ユダヤ民族は存亡の危機に直面していました。モルデカイはエステルにこう告げました。「あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。……あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」(エステル記4章14節)
王の許しがないまま王の前に出る者は命の危険があったのですが、エステルは同胞の救いのために命をかけて王の前に出ることを決心しました。エステルはモルデカイを通してユダヤ人に断食を布告しました。 (市川)
「ふたごの誕生」 創世記25:19〜26 伊藤 牧師
2008年6月15日
ヤコブの生涯は、創世記25章21節から始まり、49章33節で終わっています。
聖書の中には、何回も「ヤコブの神」と言うことばが記されています。
神様はアブラハムに「イサクに生まれる者が、あなたの子孫と唱えられる」と約束されました。しかし、イサクとリベカが結婚してから二十年間、彼らには子どもが生まれませんでした。約束の子イサクも、父アブラハムと同じ試練、信仰の戦いを経験したのです。
しかしこのヤコブは、その名前のとおり「押しのけるもの」であり、見かけは優しそうでもた陰険な人、また貪欲で疑い深い人間、狡猾で人を欺く策略家、そして卑劣な陰謀家でした。
このような邪悪なヤコブと、愛と正義に満ちた神様とを一つに結びつけた「ヤコブの神」と言うことばは、何と不釣合いな組み合わせでしょうか。しかし、これこそ罪人を聖徒に造り変える驚くべき神様の恵みを教えているのです。
今朝は、ヤコブの生涯の一回目として「ふたごの誕生」をお話します。(伊藤)
「今日を感謝して生きる」 マタイによる福音書6:34 伊藤 牧師
2008年6月8日
今日という日を大切にする教えに、
「日々是好日」とか「一日一生」とい
うことばがあります。
イギリスのジョン・ラスキンは、机の上に「今日」という一語を刻んだ石を置いて、「今日」という一日の神様の恵みを感謝して生きようと心がけていたそうです。
人間というものは不思議なもので、「老い先短い」と苦にして、今日という日の生きる喜びを失っている人がいるかと思えば、反面、「まだまだ人生は長い」と思い込んで、今日という日を怠慢や無為に過ごしてしまう傾向をもつ人も少なくありません。
イエス・キリストは、山上の説教の中で、空の鳥が思い煩うことなく毎日を喜んでさえずっているのも、また今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の花が、栄華をきわめたソロモンにも及ばない程に、美しく装っているのも、みな自分の全存在を神様に感謝して精一杯生きているからだと教えました。
今朝は、「今日を感謝して生きる」ことをご一緒に考えてみましょう。(伊藤)
「神様のプレゼント」 ローマ人への手紙、6:23 伊藤 牧師
2008年6月1日
ローマ人への手紙六章二十三節には二つの対照的な文章として、「罪の支払う報酬は死である」と「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」が記されてい
ます。
罪とは、ハマルティアというギリシャ語が使われており、「的はずれ」という意味があります。つまり、私たちの創造者である神様を無視した自分勝手な生き方を指しているのです。
「報酬」と訳された言葉の意味は「給料」のことです。ここで聖書は、罪という主人から支払われる給料は「死」であるという実に皮肉な現実を教え警告しているのです
一方、神様からの賜物は、「キリスト・イエスにおける永遠のいのち」です。
「賜物」とは、神様の恵みによって与えられるプレゼントのことです。プレゼントは嬉しいもので、それは「ありがとう」と言って受け取ればよいのです。
だからパウロは、間違った選択をせず、神様の賜物である「永遠のいのち」を得るように勧めているのです。(伊藤)