館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2008年4月

「ヨナへの主の言葉」 ヨナ書1:1〜3 市川副牧師 

2008年4月27日
 み言葉を伝える預言者エリシャが、北王国イスラエルで主に仕えた後の時代のことです。預言者ヨナは、ヤラベアム王の時代に生きた人と言われています。 ヨナは、ヤラベアム王が領土を拡大する、と予言し、その言葉どおり、王は領土を広げたと列王記下十四章に記されています。
 あるときヨナは主のみ言葉を聞きました。北方の大国アッスリヤの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ、と。しかしヨナはイスラエルに脅威となっている敵国に出かけて彼らが救われるように労するのは、主のみ言葉とは言っても承知できませんでした。
ヨナは北東のニネベではなく、西の港に向かいタルシシ行きの船に乗りこみました。「主の前を離れてタルシシへのがれようと」したのです。
  しかし、主は、国を超え民族を超えて人々を愛し、彼らが悔い改めて主に立ちかえることを願っておられ、悔い改める人を豊かに赦し受け入れてくださる方なのです。         (市川)

「イサクを献げる」 創世記22:1〜5 伊藤 牧師 

2008年4月20日
 F・B・マイヤーは、アブラハムの生涯を講解した名著、「信仰の高嶺をめざして」の中で、創世記二十二章に「最大の試練」というテーマをつけています。ここはアブラハムの生涯のクライマックスの場面です。確かに、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるゆえんは、彼がここでひとり子イサクを燔祭としてささげたことにあると思います。
  一節に「これらの出来事の後」とは、アブラハムは信仰によって、行く先がわからないのに、カルデヤのウルを出発してから、いろいろな出来事があったのち、イサクが与えられるまでの二十五年間を指しています。そしてアブラハムの家庭に、約束の子イサクが待望の末に与えられました。今や彼は何の不足もなく、円満な家庭生活を味わい始めたのです。「これらの出来事の後」とは、こういう事の後なのです。
  その後に、神様はアブラハムを試練に遭わされました。それは最愛のひとり息子のイサクを燔祭として献げなさいという命令でした。
  そこで今朝は、「イサクを献げる」というテーマでお話します。 (伊藤)

「苦しみの意味」 詩篇119:71 伊藤 牧師 

2008年4月13日
 私たちの人生に苦難はつきものです。私たちは苦難にあう時、私たちの願いは閉ざされ、挫折感を味わいます。しかし、神様はこうしたピンチをチャンスにかえてくださるお方です。
 著者のように「苦しみにあったことは、わたしに良い事です」とは、なかなか言えないものです。誰しも苦しみにはあいたくないし、あっても避けて通りたいというのが人の常だと思います。
 もちろん、この詩篇の著者も、苦しみに会うこと自体を喜んだのではなく、苦しみにあった時、神様のみ言葉が彼に光りを与え、真のいのちを与え、真の知識を与えて、その苦しみを乗り越えさせる力と慰めを与えて下さったからです。それで、「これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」と言ったのです。それほど神のみことばを学ぶことは良い事(幸せなこと)なのです。
 では、苦難を通して、神のみことばを学ぶということが、どういう点で幸せにつながるのでしょうか。
 今朝は、聖書から「苦しみの意味」について学びたいと思います。 (伊藤)

「まことの神の家」 使徒行伝7:44〜50 伊藤 牧師 

2008年4月6日
 リベルテンやサンヘドリンの人々がステパノを訴えたのは、「彼がモーセと神とを汚す言葉を吐くのを聞いた」(使徒六章十一節)からです。そこでステパノは、イスラエル民族の歴史をひもといて二つの弁明をしました。 
 もう一つのステパノの弁明は、「この人は、この聖所と律法とに逆らう言葉を吐い」た(使徒六章十三節)という「聖所」(幕屋、神殿)に関するものです。
 モーセは、神様の命令どおりに幕屋を造りました。この幕屋は、イスラエルの民が荒野を旅していた時も、ヨシュアに率いられてカナンの地にはいった時も、ダビデの時代となるまでその地に定住していた時も、神様が共におられることを表す神様の臨在の象徴でした。
 ところがソロモンが、壮麗な神殿を建ててから、イスラエルの神様に対する信仰が、「神殿さえあれば、神様が共におり永久に安全である」ような形式的な信仰に次第に変化していったのです。
 今朝は、ステパノの第三番目の弁明から「まことのの神の家」である「教会」とは何かについてお話します。(伊藤)