館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2008年3月

「再びおいでくださる主」 使徒行伝1:6〜11 市川副牧師 

2008年3月30日
 イエス様は十字架にかかって死なれました。しかし、三日目によみがえられ
栄光のお姿で弟子たちに現れてくださいました。ご自分が生きていることを示し、四十日にわたって現れ、神の国についてお語りになりました。
 その後、イエス様は、弟子たちが一緒に集まったとき、「聖霊があなたがたにくだる時、…地のはてまで、わたしの証人となるであろう」とお話くださり、言い終わると、天に上げられ、雲に迎えられて、そのお姿が見えなくなりました。このとき、白い衣を着たふたりの人が言ったのです。「…天に上げられたこのイエスは、…同じ有様で、またおいでになるであろう」と。
 イエス様の復活によって、救いのみわざの確かさが証明されました。この救いのみわざは、イエス様が再びおいでになるとき完成するのです。すなわち、主と同じ栄光のからだにかえられ主と共におるのです。「この日を待っているあなたがたは…安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」(ペテロの第二の手紙3章14節)  (市川)

「よみがえられた主」 ヨハネによる福音書20:1〜3 市川副牧師 

2008年3月23日
 キリストは十字架上で息を引き取られました。その日の夕方から安息日が始まろうとしていたので、ユダヤ人たちは死体の取り下ろしをピラトに願い出ました。
 兵卒たちは死体を取りおろすために、キリストと一緒に十字架に付けられた二人の罪人の足を折りました。キリストの所に来てみると「もう死んでおられたのを見て、その足を折ることをしなかった」とあります。それでもなお、槍でキリストのわきを突き刺しました。「すぐ血と水が流れ出た」とあります。
 弟子たちは恐怖のあまり逃げ去り、アリマタヤのヨセフとニコデモが、キリストのお体を取り下ろし新しい亜麻布を巻きました。お体は、岩をくり抜いた横穴式のヨセフの新しい墓に横たえられました。キリストの葬りはユダヤの埋葬の習慣に従って行われました。
 三日目の朝早く、マグダラのマリヤたちは、香料と香油を携え墓に急ぎました。しかし、墓の入り口の大きな石は取りのけられ、キリストのお体は見当たらなかったのです。      (市川)

「イサクの誕生」 創世記21:1〜7 伊藤 牧師 

2008年3月16日
  創世記二十一章は、サラに子供が与えられるという長年の念願がかなったことが記されています。しかし、このイサクが生まれるまでに何と長い年月がたったことでしょうか。
私たちは、ここに神様の約束が成就されたのを見るのです。これこそ神様の約束を忍耐強く待った、幸いな結果です。
今まで神様の約束を待って無駄であった人は一人もおりません。信仰によって神様の約束を信じた人は、結局は決して失望しませんでした。アブラハムがその模範です。
そしてあらゆる時代の信仰者がそうであったように、生ける神様を信頼するすべての人にとってもそうなるのだと言う約束をここは示しているのです。
イサクとは「笑う」という意味です。アブラハムとサラが、その子を「イサク」と呼ぶたびに、彼らは自分たちの不信仰の笑いに戒められると共に、信仰のゆえに笑わせてくださった神様に感謝したことでしょう。
今朝は、この約束の子イサクの誕生を通し神様の真実を学びましょう。(伊藤)

「救われるためには」 ローマ人への手紙3:23、24 伊藤 牧師 

2008年3月9日
 新約聖書テモテの第一の手紙二章四節には「神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。」と書かれています。
 大勢の方々が教会を訪れますが、その動機は、聖書を読んでみたい、賛美歌を聞きたい、牧師のお話を聞きたい等があります。そして信仰生活に期待していることもさまざまです。
 このように、いろんな動機で教会に来て、クリスチャン生活にいろんな期待を持ったとしても、聖書に示されている救いの条件を満たさないで、救われ、クリスチャンになることは出来ません。
 私たちが救われるための条件は次の二つです。
 第一は、神様の前に自分は罪人である事を認めて悔い改めることです。悔い改めとは、神に背を向けていた態度を回れ右し、神に向く心の姿勢です。
 第二は、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかられたイエス・キリストを信仰によって受け入れることです。
 今朝は、私たちが救われるためのこの二つの条件についてお話します。(伊藤)

「モーセとキリスト」 使徒行伝7:17〜22 伊藤 牧師 

2008年3月2日
リベルテンの人々は、人々をそそのかし、ステパノを議会に訴えました。ステパノは、今で言えば、最高裁判所の法廷に立たされたようなものです。
 この時のステパノの弁明は、第一に、彼が訴えられた神様への冒涜に対するものでした。そこで彼は「栄光の神」について歴史を述べて説明したのです。
 訴えられた第二は、モーセと律法に対する反逆ということでした。そこで彼はモーセの正しい姿を描き出し、それがいかにキリストに似たものであるかを説明するのです。
 ステパノは、この十七節から四十三節において、モーセの生い立ちと召命の出来事を語っていきます。そのまとめ方には、「このモーセを」(三十五節)、「この人が」(三十六、三十八節)、「このモーセが」(三十七節、新改訳)というまとめ方が目立ちます。これは彼が、旧約時代のモーセと、ステパノの信じる救い主イエス様との間に顕著な類似点を見ているからだと思います。
 今朝は、キリストのひな型であるモーセについてステパノの弁明から学びたいと思います。        (伊藤)