礼拝のメッセージ 2007年12月
「嵐を静めてくださった主」 マルコ福音書4:35〜37 市川副牧師
2007年12月30日
これはガリラヤ湖で起きた出来事です。舟にはイエス様と弟子たちが乗っていました。ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネたちは幼いときからガリラヤ湖で遊び、大人になるとガリラヤ湖で漁師として働いていた人々です。ガリラヤ湖についてはだれよりもよく知っていました。嵐が起こったとき、その彼らが必死にイエス様に助けを求めたのですから、どんなに激しい嵐であったかと思われます。
イエス様が「向こう岸へ渡ろう」と言われ、イエス様が一緒に乗っていてくださる舟です。その舟にも時にはこのような嵐が襲いかかることを忘れないようにしましょう。イエス様を信じたなら悲しみや苦しみには遭わない、というような思い違いをしないように。突然の嵐に遭ったとき深く疑ったり、失望したりしないように。
弟子たちは、嵐を静めていただいたという経験以上に、この嵐の中で改めて、イエス様という方を知らされました。これはさらに大きな恵みでした。(市川)
「星に導かれて」 マタイ福音書2:1〜3 市川副牧師
2007年12月23日
キリストの降誕を伝える聖書記事で印象に残るものの一つは、東方の博士たちをエルサレムへ、そしてベツレヘムに呼び寄せた、あの不思議な「星」のことだと思います。
この星について、福音書記者マタイは、第二章に四回も記しています。二節には「わたしたちは東の方でその星を見た」とあり、九節には「彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼子のいる所まで行き、その上にとどまった」とあります。
この星を頼りにエルサレムまで来た博士たちは、ペルシャの国の祭司でした。マギと呼ばれ、医術、占星術錬金術に優れ、王の顧問として民を導く立場にある人々でした。彼らはギリシャ訳旧約聖書、即ち、七十人訳聖書を読んで、救い主の預言を知り、今そこに記された不思議な星の出現を観測したので、預言の成就を確かめ、また救い主にお目にかかるため、千里を遠しとせず、はるばるユダヤにまで来たのです。
今朝は、この博士たちの信仰からクリスマスの意義を学びましょう。(伊藤)
「最初のクリスマス」 ルカ福音書2:1−3 伊藤 牧師
2007年12月16日
イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスを迎えようとしています。私たちは、聖書のお言葉によって、キリストご降誕の様子を知ることができます。
「そのころ」(一節)とは、キリストがお生まれくださる、そのときでした。聖書には、当時、世界を治めていた人物が記されています。「(ローマ)皇帝アウグスト」。シリヤの総督「クレニオ」。彼らについては、歴史上実在の人物であることがはっきりしています。場所についても、ローマ、シリヤ、ベツレヘムなど明確です。聖書は、キリストのご降誕が確かに歴史上の事実であることを、私たちに語っています。
そのお生まれは、貧しく、心細い旅先でのことでした。「客間には彼らのいる余地がなかった」(7節)とあります。キリストのお生まれに気づいた人々は、ほとんどいませんでした。
しかし、救い主を長い間待ち望んでいた羊飼いたちは、世界で最初に、幼な子キリストにお会いするという光栄に与りました。 (市川)
「クリスマスの目的」 テモテ第一1:15 伊藤 牧師
2007年12月9日
使徒パウロは「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった』という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。」と言っています。ですからクリスマスの真の目的は、イエス様がこの世に来られ、人間の罪の問題を解決し、救い、幸福にするためなのです。
また医者であり、歴史家であるルカは「人の子(イエス・キリスト)がきたのは、失われた者を尋ね出して救うためである」と言っています。
神様は、神様から離れた迷子を捜して、また神様のふところへ戻すために、御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださったというのです。
ですから、神様が人となってこの世に来てくださったクリスマスの真の目的は、ツリーやケーキやプレゼントやカードではなくて、私たちが「悔い改めて」、神と共に歩むためなのです。
今朝は、クリスマスの本当の目的、つまりイエス様が、「罪人を救うため」と「自分の命を与えるため」に来られたという二つのことをお話します。(伊藤)
「教会の課題と対策」 使徒行伝6:1〜7 伊藤 牧師
2007年12月2日
初代教会は、使徒行伝を読んでいきますと、一章から四章までは順調な成長発展を遂げていることが分かります。
しかし、五章においては人間の罪の故に大きな打撃を受けたことがわかります。そして神様がアナニヤ、サッピラ夫妻の罪に対して、厳しい即座の罰をくだされました。この時、教会はどうしてもきよめられる必要があったからです。
教会がきよめられてから、次に起こった問題は、配給の不公正ということでした。そのためにお互いに感謝の思いが失われていったばかりか、つぶやきはじめたのです。というのは、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが(ヘレニスト)、ヘブル語を使うユダヤ人(ヘブライスト)に対して、「自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた」からです。
問題がない教会はありません。教会も不完全な人間の共同体だからです。
では、初代教会は、こうした問題をどのようにとらえ、対策を立てて解決したのでしょうか。
今朝はその出来事を学びたい。(伊藤)