礼拝のメッセージ 2007年8月
「ナボテのぶどう畑」 列王紀上21:1〜4 市川副牧師
2007年8月26日
イスラエル王アハブの宮殿がエズレルにもありました。エズレルは、サマリヤの北方の肥沃な平原地帯です。この宮殿のそばにぶどう畑がありました。
このぶどう畑は、ナボテという人の所有地でした。
アハブは、その畑を青物畑にしたいと考えて、ナボテに譲ってほしいと申し入れました。
しかし、主を信じ律法を守ろうとするこの国の人々なら、この種の申し出が律法にかなわない、ということをよくわきまえていました。ですから、このような申し出はしなかったでしょう。
アハブがどれほど主から離れた生き方をしていたかが、この申し出に表れた、ということでしょう。イゼベル王妃の強力な影響によって、異教のバアル礼拝がはびこり、アハブも同調し、推進していたその結果です。
アハブの、この一言から、策略、そして事件へと発展しました。聖書には、その後、自分の罪の結果を刈り取ったアハブ、イゼベルについて記録されています。 (市川)
「とりなしの祈り」 創世記18:16〜22 伊藤 牧師
2007年8月19日
アブラハムの所に来た三人の旅人のうち、二人は御使いで、もう一人は主なる神様でした。
主はアブラハムに一年後には男の子が生まれることを告げました。
三人の旅人がアブラハムの所に現れたもう一つの目的は、神様のもとにまで届いたソドムとゴモラの堕落と暴虐を見て確かめ、この町の滅亡を彼に前もって告げておくためです。
主がアブラハムに主のみこころを示されたのは、彼が主の前に全き歩みを続けていたからでしょう。
アモス書三章七節にも「 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とあるとおりです。
こうしてソドムの滅亡を聞いたアブラハムは、ソドムに出かけて、ロトを始め、その指導者たちと話し合ったのではなく、主の前に立って熱心に彼らのために祈ったのです。
今朝は、アブラハムの「とりなしの祈り」から、私たちに対する祈りの必要性とその模範を学びましょう。 (伊藤)
「まことの神様」 イザヤ書46:1、2 伊藤 牧師
2007年8月12日
私たちは小学校から中学校へ進み、さらに高校から大学まで学ぶ人が大勢います。私たちが持っている知識は、そうした学びが基礎になっています。しかし、神様についてはほとんど学んでおらず、「神も仏もみな同じ」とか「イワシの頭も信心から」などと言っています。
そして、学問が進歩し技術が発達した現代では、もう人間は神様などに頼る必要はないし、頼らない方がいいという風潮さえあるのです。
しかし現実の問題として、学問や技術の力だけで人間は本当に幸福になれるでしょうか。医学は進歩しましたが、人間はいつかは死にます。そして死は、どんなに学問が進んでも、昔と同じように人間を不幸にしているのです。
科学や技術のよって確かに世の中は便利になりましたが、私たちが本当に幸福になるためには、どうしてもまことの神様のことを知る必要があります。
聖書は、まことの神様について詳しく教えている書物です。
そこで今朝は、まことの神様について聖書が、どのように教えているかをご一緒に学びましょう。 (伊藤)
「アナニヤ、サッピラ事件」 使徒行伝5:1〜6 伊藤 牧師
2007年8月5日
使徒行伝5章では、まずアナニヤ、サッピラ事件が取り上げられています。
5章の冒頭には「ところが」とありますので、4章との関連があることがわかります。4章の終わりに初代教会の熱心な証の一例として、バルナバの惜しみないささげものが記録されています。
アナニヤ、サッピラ夫婦は、かなりの不動産を持っていたようで、彼らはバルナバの献身的な献金に刺激され、またバルナバが受けた賞賛を自分達も受けたいという誘惑が生じ、夫婦相談の上、その地所を売って教会に献げるのです。
しかし、ひとつ問題がありました。彼らは、地所を売った代金のうち、自分の取り分をよけておき、一部しか持ってこないのに、それを全代金であると言って嘘をついたのです。ペテロは、アナニヤをしかりつけ、この罪は「人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」言いました。するとアナニヤはこれを聞いているうちに倒れ、息絶えてしまったのです。
今朝は、恵まれた初代教会の進展の中で、なぜこのような厳しい神様の審判があったかを学びましょう。 (伊藤)