礼拝のメッセージ 2007年2月
「ソロモンの神殿」 列王紀上8:27〜30 市川副牧師
2007年2月25日
神殿建築について、かつてダビデ王が願ったことでしたが、神様はダビデの息子、ソロモンによって神殿を建築するようにと命じていらっしゃいました。ダビデはできるだけの建築材料を用意しました。
ソロモンが王位について四年目、神殿の建築が始まりました。建築に使う石は、掘り出した場所で形を整えて運びましたので、建築現場では石を削る音はせず、不思議なほど静かでした。神殿の内側は杉の板を金で覆いましたから、内部は光を受けて美しく輝きました。この杉は貴重なレバノン杉で、海に流し運びエルサレムに引き上げました。
神殿が完成した時、ソロモンはイスラエルの全会衆の前で祈りました。
「いと高き天もあなたをいれることはできません。ましてわたしの建てたこの宮はなおさらです。(列王紀上8章27節)」しかし、ささげる祈りと悔い改めを受け入れ、恵みを与え、なおイスラエルを憐れみ導いてくださるようにと祈ったのです。(市川)
「交わりによる成長」 エペソ人への手紙4:16 伊藤 牧師
2007年2月18日
今日は礼拝に続いて定期教会総会が開かれます。2007年度予算審議と役員選挙があります。お祈りをもってご参加
くださいますようにお願いします。
聖書では、クリスチャン一人一人を羊にたとえ、主イエス・キリストを羊飼いと呼んでいます。羊が群れをなしているように、クリスチャンも、主イエス様のもとに群れをなしているからです。そこで教会とは、イエス様を信じた群れのことをいうのです。
教会は、ギリシャ語でエクレシアといい「神様に召された群れ」という意味があります。神様がこの曲がった邪悪な世から、イエス様が十字架上で流された尊い血によって贖われた人々の群れをさします。言い換えれば、教会とは、永遠に生きて働かれるイエス様が、その生ける事実をこの世に示されるための聖なる機関ということです。
聖書には、キリストのからだであるその教会が、成長していくための二つの方法が記されています。
そこで今朝は、教会の「交わりによる成長」について学びましょう。(伊藤)
「救いの門」 ローマ人への手紙3:23、24 伊藤 牧師
2007年2月11日
神様はすべての人が救われて、神様の用意してくださった祝福の道を歩んで欲しいと願っています。
大勢の方々が教会に見えますが、その動機は、聖書を読んで見たい、賛美歌を聞きたい、牧師のお話を聞きたい等いろいろです。そして信仰生活に期待していることもさまざまです。
このように、いろんな動機で教会に来て、クリスチャン生活にいろんな期待を持ったとしても、聖書に示されている救いの門を通らないで、クリスチャンになることは出来ません。
私たちが救われるためには、次の二つのことが必要です。
第一に、神様の前に自分は罪人であって、キリストの救いを受け入れる必要を知ることです。これはあまり触れられたくないことかも知れません。しかし、正直に、謙遜に、この教えを受け入れることが祝福につながるのです。
第二に、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかられたイエス・キリストを信仰によって受け入れることです。
今朝は、救われるために誰でも必要な「救いの門」のお話をします。(伊藤)
「クリスチャンの栄光と責任」 使徒行伝3:11〜16 伊藤 牧師
2007年2月4日
今日のテキストの箇所には、使徒ペテロの二回目の説教が記されています。
この説教は、三つの部分から成り立っています。第一は、足のきかない男がいやされた奇跡の原因の説明、第二は、それに基づく悔い改めの勧め、第三は、選民の持つ栄光と責任です。
ペテロは「美しの門」のところにいた、生まれながら足のきかない男に「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じ、歩かせました。
この出来事は、宮に集まっていた人々の間にセンセーションを巻き起こしたようで、「人々は皆ひどく驚いて、『ソロモンの廊』と呼ばれる柱廊にいた彼らのところに駆け集まってきた」のです。
興奮した群衆は、ペテロに熱いまなざしを向けました。しかし、多くの人々の関心は、この男が歩いたという「肉体のいやし」であって、この奇跡が教えようとしている「霊的な意味と救い」については無関心でした。それでペテロは、このことを教える必要を感じたのです。
今朝は、「クリスチャンの栄光と責任」について学びましょう。 (伊藤)