館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2006年9月

「かわく者はだれでも」 ヨハネによる福音書7章37、38節 市川副牧師 

2006年9月24日
イスラエルの民は、かつてカナンに向かって荒野を旅しました。荒野は、砂と岩の乾燥地帯です。
 イスラエルの民を指導したモーセは、オアシスを目指しながら旅をしました。どこまでも続く茶褐色の荒野に緑色のオアシス地帯が広がっています。なつめやしの木々が豊かに茂っています。人間も家畜も、暑い日差しを避け、かわききったのどを冷たい水で潤すことができました。疲れたからだを休ませることができました。
 周りが砂漠でも、オアシスには豊かな水があります。なぜでしょう。水が絶えることなく湧き出ているからです。
 現代に生きる私たちは、かつて想像できなかったほど、豊かな物に囲まれ、情報があふれ、便利な社会に生活しています。世界のどこへでも短時間でいくこともできます。珍しい物を食べ、いろいろな経験をします。しかし、心の奥には枯渇した思いがあるのではないでしょうか。今もイエス様は「だれでもかわく者は、わたしのところに来て飲むがよい」と招いていらっしゃるのです。(市川) 

「夕暮れになっても、光がある」 ゼカリヤ書14章6節 伊藤 牧師 

2006年9月17日
今朝は、敬老記念礼拝です。
この記念礼拝のために選びました聖書の箇所は、ゼカリヤ書です。
ゼカリヤは預言者で、その名前は「主は覚えていてくださった」という意味です。ゼカリヤが活躍した時代に、世界を治めていたのはペルシャのクロス王でした。彼はバビロンに捕囚になっていたユダヤ人を解放し、エルサレムに帰還させたのです。
エルサレムに帰ってきたユダヤ人が目にしたものは、荒廃した都エルサレムと再建不可能なほど破壊された神殿でした。まるで終戦直後の日本のようだったでしょう。人々は、崩壊した祖国を前にして、絶望のどん底に突き落とされるという経験をしたのです。
このような中でエルサレムの町の復興と再建を預言したのがゼカリヤです。それは「「エルサレムの街路には再び、老いた男、老いた女が座するようになる」と言うものでした。
今朝は、14章6,7節から「夕暮れになっても、光がある」という神様の希望のメッセージをお話します。(伊藤)

「人生の海の嵐に」 イザヤ書40章31節 伊藤 牧師 

2006年9月10日
 私たちの人生はよく航海にたとえられます。生まれてから死ぬまでの一生は、各人にとってはただ一度の処女航海であって、その行く手には未知の航路が横たわっているのです。
 そして航海は、新聖歌二四八番「人生の海の嵐に」と歌われているように、風あり波ありで、決して平穏無事なことばかりではありません。
 こうした無限につらなる大海原を、私たちは小さな船で航海していくのです。思えば心細い限りです。しかしイエス様が、天地創造の神様は、私たちの「父」ですと教えてくださいました。
 私たちは、人生の航海中に暴風に遭遇する事もあり、危険な所を通過しなければならない事もあります。でも人生の船長である父なる神様が舵を握っておられるならば心配はないのです。
 人生の大海原も、父なる神様の導きと守りによって進んでいくこと以上に安全で安心なことはないのです。
 今朝は、こうした「人生の海の嵐」の中で、確かに私たちを導いてくださる神様の約束をお話します。   (伊藤)

「ペテロの説教」 使徒行伝、2章14〜21節 伊藤 牧師 

2003年9月3日
 使徒たちが、五旬節の日(ペンテコステ)に、巡礼のためにきていた大勢の人々に対して、生まれ故郷の国語で神様の力あるみわざについて語り出しますと、人々は二つの反応を示しました。
 一方は、驚いて耳を傾けて聞き入り、もう一方は、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と嘲りました。どちらにしても、使徒たちには、人々に福音を語る絶好のチャンスが与えられたので、代表してペテロが説教したのです。
 ペテロは説教を始めるにあたって、まず嘲る人々に、自分たちの身に起こった出来事を説明し、「これは旧約時代の預言者ヨエルが預言していたこと」である、と語りました。
 また後半では、詩篇を引用して、イエス様がメシヤである事を大胆に宣言しています。
 そして最後に、鋭い言葉で「悔い改めと、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」と勧めたのです。
 今朝は、この使徒ペテロの説教から福音の恵みを学びましょう。  (伊藤)