館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2006年8月

「神様が味方」 ローマ人への手紙8章31節 市川副牧師 

2006年8月27日
 ローマ人への手紙八章一節に、神様が、イエス様を信じた人に「無罪」と宣言してくださるとあります。滅びから命に移され、もはや裁かれることがないのです。なんという恵みでしょう。
 神様との関係は、平安になりました。キリストの霊、すなわち、御霊がその人の内に宿っていてくださり、切なるうめきをもってとりなしていてくださいます。
 神様は、ひとり子イエス様をおくって、十字架にかけてくださったほど、ひとりひとりを愛していてくださいます。この神様が、イエス様を信じる人の味方なのです。三十一節に「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。」とあります。罪の赦しについて、不安になったり、動揺することがあるかもしれません。人に言われることがあるかもしれません。悪魔は、救いについて不安に陥れようとします。しかし「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。」(三十三節)と、明言していてくださるのです。(市川)

「アブラハムの失敗に学ぶ」 創世記12章10〜16節 伊藤 牧師 

2006年8月20日
 アブラハムは神様が示す地に行くために、信仰によって出発をし、彼は約束の地カナンに到着しました。
アブラハムは、そこで飢饉に遭遇したのです。その時彼は、約束の地に留まるべきでした。けれどもそれにに耐えかねて、エジプトへ下ってしまったのです。
 遊牧民が飢饉に遭遇した時に大国エジプトに向かうことは当時よくあったことです。エジプトにはナイル川が流れており、その流域は豊かに肥えて、草のなくなる時はありませんでした。しかし、そこに行くことは約束の地に導かれた神様の命令ではありませんでした。
 エジプトは偶像の満ちたこの世の姿です。信仰によって神様を信じ、この世から脱出した者が再びこの世界に戻ることは、神様への反逆行為です。
 アブラハムは、神様がその愛する者と共におり、かつ、守られるという確信を失い、神様に対する信頼を忘れてエジプトに下って行き、そこの人々を恐れて失敗してしまったのです。
 今朝は、アブラハムの失敗を通し、私たちへの教訓を学びましょう。(伊藤)

「この人による以外に救いはない」 使徒行伝4章12節 伊藤 牧師 

2003年8月13日
 日本人の宗教観を表わしている歌に 「わけのぼる ふもとの道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」があります。どれも宗教は同じさ、という事です。世の中に多くの宗教があるのに、なぜキリスト教でなければならないのでしょうか。宗教は沢山あるのに、なぜ「救い」はキリストによらなければ駄目なのでしょうか。
 キリストの弟子のペテロは、キリストの裁判の時、人を恐れて「キリストなんて知らない」と三度も言ったのです。
 そのペテロが、サンヘドリンの議会の真ん中でキリストを十字架につけた大祭司アンナス、カヤパ及び長老たちを前にし、「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」と、大胆に語りまし
た。何がペテロをそこまで語らせたのでしょうか。
 私たちは「救い」という言葉をよく使います。では、聖書が語っている「救い」とは何でしょうか。
 今朝は、この事をお話します。(伊藤)

「聖霊が下る」 使徒行伝2章1〜13節 伊藤 牧師 

2006年8月6日
 キリスト教会において、聖霊がくだったことを記念するペンテコステの祝いは、クリスマスのようには祝われることが多くはありません。
 しかし、この聖霊がくだったことによってキリスト教会が誕生したことを思う時、その重要さは測り知れないものがあります。
 イエス様は、十字架につけられて葬られ、三日目によみがえられて、四十日の後昇天されました。その昇天の直前、弟子たちに向かって「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」と命じられました。
 そこで弟子たちは、主が命じられたとおりに、約束の聖霊を待ち望んで祈り会をしていました。またイエス様を裏切った弟子のユダの代わりに使徒を補充して組織を整えました。このように十分態勢が整った時、昇天したイエス様の代わりに助け主聖霊がくだられたのです。
 今朝は「教会の誕生日」であるこの出来事を学びましょう。    (伊藤)