館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2006年7月

「紹介人アンデレ」 ヨハネによる福音書1章35〜42節 江森 五男 

2006年7月30日
 今日学びます聖書の箇所は、言うまでもなく弟子の選びの記事です。
 ここを読む前に、私がこの講壇に立って、「今からテストします。十二使徒の名前をあげなさい」と言ったら、皆さんは何人の使徒の名前をあげることが出来るでしょうか。マタイ・ペテロ・ヨハネ・ユダ・トマス…くらいはすらすらと出てきますが、案外出てこないものです。
 アメリカの39目の大統領にジミー・カーターという人がおりました。その人がジョージア州知事から大統領予備選挙に出たときに言われた言葉ですが「Jimmy Who?」(「ジミーって誰?」という標語がありました。その言葉を借りるならば、「Andrew Who?」(アンデレって誰)ということになるかも知れません。
 今朝は聖書の中にあまり登場してこない、隠れた使徒、沈黙の使徒の一人、アンデレについて皆さんとともに学んでいきたいと思います。 (江森 五男)

「新しいいのちに生きる」 ローマ人への手紙6章1〜5節 伊藤 牧師 

2006年7月23日
  今日の洗礼式において、四人の姉妹が受洗する事ができたのは本当に嬉しく、また大勢の方々が、祈り、導いて下さった事に心から感謝します。
 洗礼とは、イエス・キリストを信じた者がキリストのからだである教会に加わるために、キリストに対する信仰を目に見える形で表明する儀式です。 
 洗礼の方法については、この言葉が「浸す」(バプティゾー)という意味があるように、全身を水に浸す方法で行われます。
しかし、それは原則であって、受洗する人の健康上の理由等で、父と子と聖霊の名によって頭に水を注ぐ「滴礼」という方法で行われる事もあります。 
 さてこの洗礼は、ローマ人への手紙六章四節によれば、キリストと一つに結ば合わされた、という意味があります。「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」からです。
 今朝は、この「新しいいのちに生きる」意義を学びましょう。  (伊藤)

「鷲のように」 イザヤ書40章31節 市川副牧師 

2006年7月16日
 私たちはときには、「だれも、この苦しみや悲しみを理解してくれない、神様も知っていてはくださらない」と、思いつめることがあるかもしれません。私たちは、弱りやすく、疲れやすく、知恵や理解にも限界があります。ひとたび苦しみ、悲しみにあえば嵐の湖面に激しく揺れる木の葉のようです。
 神様はイザヤ書40章で、ヤコブよ、イスラエルよ、神様は苦しみを見て見ぬふりをしているから不公平だなどと、どうして言えるのですか、と語りかけてくださいました。
 そして神様は「とこしえの神」「地の果の創造者」でいらっしゃり、弱ることなく、疲れることなく、すべてを御手に治め生かし養っていてくださる方だと改めて教えてくださっています。
 この神様を待ち望む者は、新しい力を受けることができ、その生き生きとした力強さは、鷲が翼をはってのぼるようだと言われています。弱く疲れやすく、苦しみや悲しみに揺れて力を失うとき、主を見上げ、主を待ち望む者とさせていただきましょう。       (市川)

「救いの処方箋」 マタイによる福音書9章9〜13節 伊藤 牧師 

2003年7月9日
イエス様はカペナウム近くの収税所にすわっていた取税人のマタイをお招きになりました。マタイはイエス様の招きに応えて、すぐに立ち上がり、他のイエス様の弟子たちと同じように、いっさいを捨てて従いました。そればかりか、彼は取税人仲間を自分の家に招いて、その喜びを分かち合い、また救いを宣べ伝えたのです。
 その時イエス様は、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。… …わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃいました。
「丈夫な人」とは、自分こそ正しい人間であると自負しているパリサイ人を指し、「病人」とは、自分の罪を自覚している取税人や罪人を指しています。
 「医者」はイエス様ご自身です。イエス様は「自尊心に満ちて、自分の罪を認めない人々を救うためではなく、自分の罪を認め、救いを求めている取税人や罪人を救うために来た」とご自身の役割を示されたのです。ここに聖書のしるす「救いの処方箋」があるのです。 (伊藤)

「心を騒がせずに」 使徒行伝1章15〜20節 伊藤 牧師 

2006年7月2日
 イエス様の昇天直後、エルサレムの一軒の家の屋上にある部屋に、120名ばかりのクリスチャンたちが集まっていた。ペテロは、その中に立って、イスカリオテのユダの脱落後の補充として一人の使徒を選ぶことを提案した。
 使徒の資格は、「主イエスが、ヨハネのバプテスマの時から始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日に至るまで、始終わたしたちと行動を共にした人たちのうち、だれかひとりが、わたしたちに加わって主の復活の証人にならねばならない」という条件に当てはまる人であった。そこで、くじを引いた結果、マッテヤという人が使徒として加えられることになった。
 この使徒の補充に最も大切なことは、神様のみこころを知り、正しい選択をするための一致した祈りであった。
 そこで彼らは、彼らのすべてを知っておられる主イエス様に対して、「主よ、お示し下さい」と祈ったのです。
 私たちの教会も、いつでも、何事でも「主よ、お示し下さい」と祈り、その答えに従っていきたいものです。(伊藤)