館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2006年1月

「受け継がれてゆく信仰」 創世記22:2 伊藤 牧師 

2006年1月29日
 創世記22章は、アブラハムの生涯を記した中でも最もよく知られた箇所かもしれません。
 この中に、イサクという名が出てまいります。
 イサクは、信仰の父といわれるアブラハムと、波乱曲折の生涯に富んだイサクの子ヤコブの間にあって、その生涯はきわめて平凡であったようです。
 けれども、このイサクに私たちは、近しい親しみと安らぎを覚えるのです。
 イサクには私たちと同じような人間的な弱さと欠陥があったようですが、神はこの平凡なイサクを祝福しました。さらに、神はアブラハム、イサク、ヤコブの神として、イサクを含めて名乗られているのです。 
この事実ゆえに凡人である私たちは、ある種の共感と安堵感を覚えるのでしょう。
この聖書箇所は、アブラハムの信仰を問い、応答を求める出来事でした。
同時に、平凡な人イサクが服従する姿に、彼の信仰を学ぶことが出来ると思います。        (宮田政信)

「神の言葉によって」 マタイ福音書4:4 市川副牧師 

2006年1月22日
 新たな抱負、期待をもって、新しい年を迎え歩み始めていらっしゃることと思います。
 しかしまた、新しい年を迎えたとは言っても、自分を取り巻く状況は依然として変わらず、困難や、難しい仕事や人間関係のなかで毎日を過ごすということもあるでしょう。
 イエス様がこの地上を歩まれた日々、ある時は汗を流し、ある時はラザロの墓の前で涙されました。そして、ヘブル人への手紙4章15節のとおり、罪はおかされませんでしたが、私たちが経験するあらゆる試錬に会ってくださった、そのようなご生涯でした。
 イエス様がこの地上を歩まれた時、お心にあった最大の思いは、救い主としての使命を父なる神様の御心にかなって最後まで成し遂げることだったでしょう。使命を果たそうとなさるイエス様への、悪魔の激しい攻撃、誘惑に対する心の姿勢は、マタイによる福音書4章にあるとおり、神のみ言葉を堅く信じて立つことでした。弱い私たちはなおさら、聖書のみ言葉を心に蓄え、信じて立たせていただかなければなりません。(市川)

「不思議な文字」 ダニエル書5:1〜4 伊藤 牧師 

2006年1月15日
 紀元前6世紀頃、バビロンという大国がありました。この国は二代目のネブカデネザル王の時に最も繁栄し、当時の世界に君臨していました。
 旧約聖書ダニエル書5章は、権力を誇り、栄華を極めたこのバビロン帝国の滅亡の章です。その日、ネブカデネザル王の孫のベルシャザル王は宮殿に千人の大臣たちを集め、大宴会を催していました。酔いがまわってきた頃、調子にのった王は、エルサレムの神殿から奪ってきた金銀の聖なる器を持って来させ、人々はそれで酒を飲み交わしていたのです。
 その時、突然に人の手の指が現れ、宮殿の壁に「メネ、メネ、テケル、ウパルシン」と不思議な文字を書きました。その文字の意味は「あなたの治世は終わり、あなたの目方は足りなく、あなたの国は分かたれてメデアとペルシャの国に与えられる」というものでした。
 そしてダニエルが解き明かしたように、王はその夜のうちに殺され、大国バビロンは滅亡したのです。
 今朝は、この不思議な文字が教える私たちへの教訓を学びましょう。(伊藤)

「新しい出発」 ヨハネ福音書3:1〜3 伊藤 牧師 

2006年1月8日
 湯川秀樹博士は「朝起きて、顔を洗ってから夜寝るまで、毎日同じようなことを繰り返している間に、いつの間にか年の暮れになる」と言っています。
 新しい年の始めには「今年こそ」とだれもが希望を抱いて踏み出しますが、年末には、何とも空しい思いで終わるという人が多いのではないでしょうか。
 結局、人生とはこういった繰り返しで終わってしまうものなのでしょうか。
さて聖書は、これらの空しい生き方を人間の罪の結果である「死」があるからだと言っています。だから人間は何をしても「死」によって、その先が閉ざされてしまうのです。
 しかし、イエス・キリストは私たちの罪の罰の身代わりとして、十字架上で死んでくださったのです。
 だから、イエス・キリストを信じ受け入れるだけで、だれでもその罪によって滅びることなく、神の国に入れるようになるのです。
 これが「新しく生まれる」ということです。そして、信じた人々には「新しい出発」が約束されているのです。(伊藤)

「新しい事を期待せよ」 イザヤ書43:18〜21 伊藤 牧師 

2006年1月1日
 西暦2006年の新しい年がスタートしました。この西暦を表わすADの意味は、ラテン語でアンノ・ドミニと言い、主の年という意味です。私たちの主イエス・キリストの年、2006年だということです。
 ソロモンは伝道の書で「日の下にはあたらしいものはない」と言い、また「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変わらない」と言っています。
 ではイザヤが言っている「見よ、わたしは新しい事をなす」とはどういうことなのでしょうか。
それは移り行く空しい日々の繰り返しではなく、神様による新しい創造のことを言っているのです。イザヤが言う「新しい事」とは、「新しい救いのみわざ」のことで、私たちの人生を質的に変えることです。
 主はこの年、私たちの群れに対してどのような期待をお持ちなのでしょうか。私たちはどのような指針を持って、主に従っていけばよいのでしょうか。
 今年、主がなして下さる「新しい事を期待」して歩んでいきましょう。(伊藤)