礼拝のメッセージ 2005年9月
「罪の赦しを信ず」 マタイによる福音書18:15〜22 伊藤 牧師
2005年9月4日
使徒信条は「我は聖霊を信ず」と告白 した後で、続いて聖霊の働きによる信仰
告白にはいっていきます。前回の使徒信
条では「公同の教会、聖徒の交わりを信 ず」ということについて学びました。続 いて「罪の赦しを信ず」という告白を もってきているのはとても深い意味が あります。
それは教会が罪を赦されたことを知 り、そのことを感謝する人々の集まりだ からです。
信仰生活の問題で、まず何よりもわた しの罪は赦されているということを信 ずることが一番大切なことです。
ですから使徒信条は、神を愛すると か、隣人を愛するととか告白しないで、「罪の赦しを信ず」ということだけを告白しているのです。
それは私たちが神を愛するにせよ、隣 人を愛するにせよ、その土台は私の罪は赦されているということを信じることだからです。すべてはここから始まるのです。
そこで今朝は、使徒信条の「罪の赦し を信ず」という告白を学びたい。(伊藤)
「ベテスダの池の辺で」 ヨハネによる福音書5:1〜9 伊藤 牧師
2005年9月11日
ユダヤ人の祭りが行われていた時に、イエス様はエルサレムに上り、神殿の北側、羊の門のそばにあるベテスダの池と呼ばれている所に行きました。
このベテスダの池の周りには五つの廊がありました。その中には、ただ肉体的に病んでいる人だけではなく、心の病んでいる人がいたと言われます。
この池に、時々、主の御使いが降りてきて水を動かすことがありました。その時、一番初めに池の中に入った人はどんな病気にかかっていても癒される、との言い伝えがありました。
そこで水が動く事があれば、他人を押しのけてでも自分が入ると言うような醜い生存競争が展開されていたのです。これらの出来事は、今も変わりない人間の現実であり、世界の縮図です。
そういう中にイエス様はおいでになり、三十八年間という最も重い病気の人の所にきて「なおりたいのか」と声をかけられました。
これは、イエス様を信じるならば、だれでも「立って歩く事が出来る」という、私たちへの招きでもあるのです。 (伊藤)
「天の故郷を望む」ヘブル人への手紙11:13〜16 伊藤 牧師
2005年9月18日
今朝は「敬老の日」の記念礼拝です。そこで私たちが年をとった時に待ち望むべき聖書の教えをご一緒に学びたいと思います。
新約聖書、ヘブル人への手紙十一章には、信仰の偉人たちの名前が記されています。彼らが信仰によって持っていたのは、「天の故郷への望み」でした。
これは、主の再臨によって現在の世界が完成される時か、或いは、召されることによって天にある家に入る時か、どちらかによってかなえられます。ですから、信仰の偉人と言われた人たちは、この神様の祝福を、期待に胸ふくらませて待ち望んでいたのです。
クリスチャンにとって、主の再臨は、天のもろもろの栄光の現れの始まりを意味しています。最後の晩餐の時、主イエス様は弟子たちに対して、「あなたがたのために、場所を用意しに行く」と言われました。
こうして神様は、天において豊かな祝福を与えてくださるのです。それを思うと、これからの日々に力が湧き明るい気持ちにさせられるのです。(伊藤)
「アブラハムの祈り」 創世記18:1〜3 市川副牧師
2005年9月25日
十月の「特別伝道月間」に備えて教会ではいろいろな準備が行われています。お友達やご家族を誘うため祈りつつ備えていらっしゃる方も多いでしょう。
この期間、私たちは、家族や、友人、知人のために、地域の方々のために、さらにお祈りできればどんなに幸いでしょう。結果がすぐに与えられることもありますし、長い年月忍耐を要する場合もあります。
しかし、幸いなことは、私たちが心にかけている以上に、主はその人々を心にかけ愛していてくださることです。
私たちは主の愛に励まされて、小さな祈りをささげ続けましょう。
今朝は、アブラハムのとりなしの祈りをお読みしましょう。アブラハムは、腐敗の町ソドムとゴモラの滅亡を告げられました。彼は、正しい人たちが巻き込まれて滅びないよう必死に祈りました。
その姿は祈りのお手本です。そして私たちのためにとりなしておられる、主の愛を思い起こします。 (市川)