館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2005年8月

「聖なる公同の教会」 マタイによる福音書16:15〜18伊藤 牧師 

2005年8月7日
 先月は、使徒信条の第三部のはじめである「我は聖霊を信ず」について学びました。
 この「我は信ず」にあたる「クレドー」というラテン語の原文は、聖霊だけではなく、それに続く「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命」を信じることが、「聖霊」を信じるという項目に含まれているのです。
 それは「聖なる公同の教会、聖徒の交わり……永遠の生命」も、聖霊のみわざであり、聖霊の賜物にほかならないからです。
 聖霊こそ、「聖なる公同の教会」を建て上げ、「聖徒の交わり」を造り出しているお方です。
 ですから私たちは「聖なる公同の教会を信ず」、「聖徒の交わりを信ず」と、毎週教会で心から唱えるのです。
 こうして私たちが、使徒信条のこの部分を告白する時、私たちが教会の交わりに加えられているのは、教会が平安と喜びを与えてくれる源泉である事を言い表し、感謝していく事なのです。(伊藤)

「すべてを満たす神」 ローマ人への手紙8:28 伊藤 牧師 

2005年8月14日
 内村鑑三は「キリスト教の源はどこにあるのかの質問に、モーセの十戒である」と答えています。また「キリスト教の福音の真髄を味わいたいなら、その根底のモーセの十戒を学ぶべきである」と言っています。それ程「十戒」には大切な神のご命令が記されてあるのです。
 十戒の第一戒は「あなたはわたしのほ かに、なにものをも神としてはならない」です。 よくキリスト教は、自分以外の神を認めないから、排他的で狭い宗教だと誤解している方があります。しかし、この第一戒の意味は、私たちを束縛している、悪しきしきたりや偶像礼拝などからの、解放宣言なのです。
 私たちは、いろいろなものに束縛されてしまうので、自由になりたいと思いながら不自由な生き方をしています。
 そして私たちに向かって、「あなたはそれらのものに束縛されなくてもよい」と言っている言葉なのです。
 もっと具体的に言えば、私たちを不安にする、さまざまな思い煩いからの解放を宣言している言葉です。   (伊藤)

「救いについて」ローマ人への手紙3:23、24 市川副牧師 

2005年8月24日
  洗礼をお受けになった方々が、礼拝で毎週証言してくださっています。教会に来るようになったきっかけは何だったのか、どのようにしてイエス様を信じるようになったのか、お聞きするたびに、恵み深い神様のお導きを知らされて、主の御名を崇めます。
 お慣れにならない皆様の中にも、確信を持って神様を信じることができるなら本当に嬉しいのだが、と思っていらっしゃる方もおられると思います。
 もし、神様に愛されているかどうか確信がない、罪が許されているかどうか確信がない、お祈りに答えて頂けるかどうか確信がないとしたらどうでしょうか。なんと不安で心細いことでしょう。
 私たちは、しばしば神様にお頼りせずに、自分の信仰、自分の正しさ、自分の力などに、確信の基礎を期待しやすいので、なかなか確信が持てません。
 「信仰」は「神様にお頼りすること」「神様を信じること」です。
 もっとも基本的な、救いについて、確信を持つことができるかどうかはとても大切です。聖書に記されていることは、私たちが「救われる」のは「信仰による」ということです。
 今朝この点を聖書から学びましょう。    (市川)

「苦難の中での信仰」 ダニエル書3:1〜7 伊藤 牧師 

2005年8月28日
  ダニエル書二章に記してある、ネブカデネザル王が巨像の夢を見た時から、この三章の事件までに約二十年の月日が経っています。
 その後、ユダはバビロンによって二回の攻撃を受け、ついに紀元前五八六年に都エルサレムは陥落し、主の神殿まで焼失してしまいました。
 バビロンのネブカデネザル王は、昔見た恐ろしい夢のことも、ダニエルの信じる真の神様のことも忘れてしまったように、ただ自分の王国の結束と安泰を計ろうとして、ドラの平野に大きな金の像を作ったのです。
 そして王は、高官や国民をこの像にひれ伏して拝ませ、忠誠を誓う愛国心の表明を強制したのです。
 ところが集まった人々の中で、ダニエルの友人の三人は王の命令に従わず、金の像を拝みませんでした。彼らは、たとい自分たちの命が奪われるようなことになっても、真の神に対する信仰を貫こうとしていたのです。
今朝は、この三人を通し苦難の中での信仰のあり方を学びましょう。(伊藤)