礼拝のメッセージ 2005年6月
「キリストの再臨」 使徒行伝1:6〜11 伊藤 牧師
2005年6月5日
主イエス様は、人間の救いのために「聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、十字架につけられ、死にて葬られ…
よみがえり、天にのぼり」ました。以上の使徒信条の告白は、イエス・キリストに関する過去を述べたものです。
そして、主イエス様は、父なる神の右に座して、私たちのために、とりなしておられるという使徒信条の告白は、イエ
ス・キリストの現在を述べているものです。
こうしてよみがえられた主イエス様は、助け主すなわち聖霊を送り、私たちと共にいてくださるのです。
では、イエス・キリストの未来についてはどうでしょうか。使徒信条の告白は、「かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを審きたまわん」と述べています。これはキリストの再臨と審判を述べたものです。初代教会のクリスチャンたちは、互いに「マラナ・タ」(われらの主よ、きたりませ)と挨拶を交わしたと言われます。
今朝は、この使徒信条の希望の告白をご一緒に学びたいと思います。 (伊藤)
「愛の呼びかけ」 マタイによる福音書12:17〜21 伊藤 牧師
2005年6月12日
パスカルは「パンセ」の中で「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である」と言っています。
このパスカルの言葉は、人間の弱さと同時に、人間の決して冒されない尊厳を見事に言い表している、と言われます。
パスカルは小さい時から病弱であり、また生涯、身体に痛みを負っていた人だったそうです。それだけに「人間は一本の葦にすぎない」という言葉には、自らの体の痛みと傷の経験が深く関係していると言えるかもしれません。
しかし、そのすぐにでも壊れそうな人間には、限りない尊厳がある、そうパスカルは信じ、言明しているのです。
この「考える葦」という比喩をパスカルはどこからとったのでしょうか。いろいろ言われますが、イザヤ書四十二章三節の「また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく」のみことばがいちばん有力だそうです。
今朝は、弱い葦、煙っているような灯心にすぎない私たちに対し、イエス様の慰めに満ちた約束をお話します。(伊藤)
「ネブカデネザル王の夢」 ダニエル書2:1〜4 伊藤 牧師
2005年6月19日
ネブカデネザル王は、当時世界で最も強い新バビロニヤ帝国の王様でした。
しかし、そのような権力者である王が、一夜の奇妙な夢によって心が騒ぎ、夜も眠れなくなってしまったのです。当時、夢はやがて起こることの前兆と考えられていたからです。
そこで王は、国中の博士、法術士、魔術士、カルデヤ人を集めて、自分の見た夢とその解き明かしをするように命じました。多くの人は自分が見た夢でさえ忘れてしまうのに、他人が見た夢の内容とその意味を明らかにするように求めたのです。もちろん、あまりに無茶な要求ですから、誰ひとり説明することが出来ませんでした。
とうとう王は、自分の要求に応じられない学者たちを殺してしまうように命じました。当然、ダニエルとその仲間の命も狙われました。
このような危機的な状況の中で、ダニエルは神様に信頼し、知恵と思慮とをもって応答していくのです。
今朝は、こうしたダニエルたちの信仰と祈りの姿勢を学びましょう。(伊藤)
「見つけられた迷子」 ルカによる福音書、19:1,2 市川副牧師
2005年6月26日
エリコはヨルダン川の下流が、すぐ死海に流れ込むあたりの西にある町です。ヨルダン川の東の地域とエルサレムを結ぶ地点にあり、同時に北から下ってエルサレムへ向かう入り口にもあたりました。なつめやし、バルサムなどの森があり、ローマ人はこれらを輸出し、その他商業、流通の主要な場所で、関税徴収所があり、その税収入は莫大でした。
当時ユダヤは、ローマ帝国に占領され、重税を納めていました。取税人は、ユダヤ人でありながら同胞から税を取り立てる役職で、ローマの権力を笠に着て、私腹を肥やすので「売国奴」と言われていました。
ザアカイはエリコの「取税人のかしら」で、権力と財力を手に入れ、贅沢な生活でしたが本当に幸福でなかったのです。
子供がおもちゃに気を取られて迷子になるように、ザアカイも権力と財力が幸福の鍵だと思い込んだ迷子でした。彼は評判のイエス様がエリコに来られた時、会いに出かけました。「どんな人か見たいと思っていた」からです。(市川)