館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2005年2月

「イエスの受難」 マルコによる福音書15:1〜5 伊藤 牧師 

2005年2月6日
   私たちが毎週唱える使徒信条は、教会で唱えるいくつかの信仰告白の中でも一番古い歴史を持っているものです。
もともと使徒信条は、洗礼を志願する人が、何をどう信じているかを告白し、福音の真理を受け入れるために簡潔に整えられたものだと言われています。
ご承知のように、新約聖書の四つの福音書には、イエス様が地上で伝道された時の様子が詳しく記されています。
ところが、その伝道の様子や内容について、使徒信条は一言も触れていないのです。「処女マリヤより生れ」たイエス様が、いきなり「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」たという所まで飛んでしまうのです。
なぜ、イエス様のご生涯の初めを述べ、そして終わりを述べるだけで、その間の生涯を省略したのでしょうか。
それは福音の要約である「十字架と復活」に重点を置いているからです。
今朝は、使徒信条の中心である「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」の部分を学びましょう。(伊藤)

「救われるためには」ヨハネによる福音書3:14〜16 伊藤 牧師 

2005年2月13日
 使徒時代、危機に瀕したひとりの看守が「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」と尋ねました。するとパウロは、「主イエスを信じなさい」とはっきり勧められました。
 また学者ニコデモは、イエス様のなさったことを見て、神様が遣わされた方であると信じ「神の国の民になるためにはうすればよいか」を尋ねたと思います。
 するとイエス様は、イスラエル人に強烈な印象として残っている、荒野でさおにあげられた青銅のへびを仰ぎ見て救われた話をされたのです。
 昔、イスラエルの民がシナイ半島を経由してカナンの地に入ろうとしていた時、彼らの持病の「つぶやき」が起こりました。その時、神様の送った火のへびは民をかみ、多くの人が死にました。驚いた民は罪をお詫びし、モーセに助けを求めました。その時神様は、モーセの祈りを聞き、さおに掲げた青銅のへびを仰ぎ見るならば生きる、と言ったのです。
これは、十字架の救いのひな型で、誰でも罪をお詫びし、キリストの十字架を信じれば救われる象徴なのです。(伊藤)

「祝福される教会」 詩篇1:1〜3 伊藤 牧師 

2005年2月20日
  今日は礼拝に続いて定期教会総会が開かれます。2005年度予算審議と役員選挙があります。お祈りをもってご参加
くださいますようにお願いします。 詩篇一篇には、幸いな人生について、 或は祝福された教会とは、どのような姿かが描かれているのです。
 1節に書かれている「幸いである」という言葉は、ヘブル語のアシュレー、「まっすぐに歩む」という語から出た言葉です。本当に幸いな教会の姿は、神様に対してまっすぐに歩む群れであるということでしょう。
 そして、神様に対してまっすぐに歩むことが、「流れのほとりに植えられた木」にたとえられているのです。
 この木は、水路のそばに自然に生えた木ではなく、手入れされて移植された木です。激しい太陽の下でも、水が補給されるため枯れないで豊かな実を結びます。それがちょうど、罪と滅びから救われ、教会の群れの一員となり、神様の恵みに生きる群れの姿に似ています。
 今日は、教会が祝福の中を歩み続けていく秘訣について学びましょう。(伊藤)

「嵐の中の弟子たち」 列王紀下、5:1 市川副牧師 

2005年2月27日
 これはガリラヤ湖で起きた出来事です。舟にはイエス様と弟子たちが乗っていました。ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネたちは幼いときからガリラヤ湖で遊び、大人になるとガリラヤ湖で漁師として働いていた人々です。ガリラヤ湖についてはだれよりもよく知っていました。嵐が起こったとき、その彼らが「わたしたちは死にそうです」とイエス様に助けを求めたのですから、どんなに激しい嵐であったかと思われます。
イエス様が「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われ、イエス様が一緒に乗っていてくださる舟です。その舟にも時にはこのような嵐が襲いかかることを忘れないようにしましょう。イエス様を信じたなら悲しみや苦しみには遭わない、というような思い違いをしないように。突然の嵐に遭ったとき深く疑ったり、失望したりしないように。
弟子たちは、嵐を静めていただいたという経験以上に、この嵐の中で改めて、イエス様という方を知らされました。これはさらに大きな恵みでした。 (市川)