館林キリスト教会

Contents

礼拝のメッセージ 2004年11月

「イエス・キリストを信ず」 ヨハネによる福音書3:16〜21 伊藤 牧師 

2004年11月7日
 使徒信条は、神様が父、子、聖霊の三位一体のお方である真理について証言しています。というのは、キリスト教信仰の歴史的な基礎的事実、つまり子なる神であられたお方が、その父に祈られたこと、その天的な奉仕を続けるために、そのお方と父とが「もう一人の助け主」を送られることを約束されているからです。
 さらにクリスチャンの信仰生活において誰もが経験しているように、御子を送られた父なる神の愛、十字架によってもたらされた御子による救いの恵み、今も生きて働かれておられる聖霊様の力強い働きなど、まぎれもなく聖書の神が三位一体のお方であることを指し示しているからです。
 この使徒信条の中心は、一番長く述べられているイエス・キリストです。救いについても、復活や永遠の命についても、イエス・キリストを別にしては知ることが出来ないからです。
 今朝は、使徒信条の第二番目の告白、「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず」を学びましょう。(伊藤)

「神様の賜物」 ローマ人への手紙6:23 伊藤 牧師 

2004年11月14日
ローマ人への手紙六章二十三節には二つの対照的な文章として、「罪の支払う報酬は死である。」と「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」が記されてあります。
 罪とは、ハマルティアというギリシャ語が使われており、「的はずれ」という意味があります。つまり、私たちの創造者である神様を無視した自分勝手な生き方を指しています。
 「報酬」と訳された言葉の意味は「給料」のことです。ここで聖書は、罪という主人から支払われる給料は「死」であるという実に皮肉な現実を教え警告しているのです
 一方、神様からの賜物は、「キリスト・イエスにおける永遠のいのち」です。
 「賜物」とは、神様の恵みによって与えられるプレゼントのことです。プレゼントは嬉しいもので、それは「ありがとう」と言って受け取ればよいのです。
 だからパウロは、間違った選択をせず、神様の賜物である「永遠のいのち」を得るように勧めているのです。(伊藤)

「悔い改めの勧め」 ルカに福音書13:1〜5 伊藤 牧師 

2004年11月21日
 今年は、日本に上陸した台風が十回という異例の年だった。そして十月二十三日には、中越地震が起こり、「まさか」と思うほどの自然災害による悲惨なニュースが続いている。
 寺田虎彦は、「災害は忘れた頃にやってくる」といったが、毎週のように襲ってきた災害には、多くの人が恐怖を感じ、被災地の人々のために、心を痛め、祈りをささげ、自分たちに出来る限りのことをしたいと思ったに違いない。
 それと共に、被災地の様子をテレビで見ながら、大勢の人々が物心両面から支援にかけつけ、手を差し伸べている姿を見ると、一人一人のもつ暖かな思いやりを知らされ、慰められた方も多いのではないかと思う。
 イエス様の時代にも、事件や災害が起こっている。ある時、ガリラヤ人が殺され、その血が神殿の犠牲の血に混ぜられたり、シロアムの塔が倒れて、その下敷きで十八人が亡くなったりした。
 この時イエス様は、その悲惨な実態を悲しむと共に、全ての人々に対して悔い改めの必要性を話された。 (伊藤)

「神の賜物」 エペソ人への手紙2:8 市川副牧師 

2004年11月28日
 エペソ人への手紙は、使徒パウロによって、獄中で書かれました。
そのパウロは、人間的な条件によって人が神に受け入れられるとすれば、最適な人物だったと思います。自分について「ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者」と言っているほどです。
しかし彼は、律法を守ろうと努力を重ねたにもかかわらず、救いの確信、魂の平安は得られず、かえって罪の自覚に苦しみました。それが実状でした。
やがて彼は「人が救われるのは、神の恵みと、神の賜物だ。それは信仰によるので、決して行いによるのではない」と言いました。
私たちには、自分で自分にいろいろと条件をつけ、その条件が満たされるまでは救いを受けられない、と思い込む傾向があるのではないでしょうか。しかし、救いの条件は「キリストの十字架」それだけで十分。私たちは、キリストによって差し出された救いを、信仰の手をのべて受け取ればよいのです。  (市川)