礼拝のメッセージ 2004年8月
「十戒に学ぶ」 出エジプト記20:1〜3 伊藤 牧師
2004年8月1日
クリスチャンの信仰生活を支える三つの柱があるとすれば、「我は信ず……」と告白する使徒信条であり、「あなたは……」と呼びかけて、唯一の神様への服従を命じる「十戒」であり、「我らの……」と祈る「主の祈り」と言えるでしょう。そこで今回は「十戒」について学びたいと思います。
「十戒」は、神様がその教えの根本を十の戒めの形で示されたもので、世界の宗教と倫理に、計り知れないほど、大きく深い影響を与えています。
この十戒の言葉は、旧約聖書の出エジプト記二十章に出ています。そして一、二節には、「神はこのすべての言葉を語って言われた。……あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」とあります。それから十戒の言葉が続きます。「十戒」は、英語でデカローグと言い、十の言葉という意味で、「戒め」よりも、十の言葉に要約された神の言葉というべきでしょう。
だから私たちが、この十の言葉を大事にして生活する時、神の言葉に従って生きていると言えるのです。 (伊藤)
「試練を生かす」 詩篇119篇71節 伊藤 牧師
2004年8月8日
私たちの人生に試練はつきものです。私たちは試練にあう時、私たちの願いは閉ざされ、挫折感を味わいます。しかし、神様はこうしたピンチをチャンスにかえてくださるお方です。
「苦しみにあったことは、わたしに良い事です」とは、なかなか言えないものです。誰しも苦しいことにはあいたくないし、あっても避けて通りたいというのが人の常だと思います。
もちろん、この詩篇の作者も、苦しみに会うこと自体を喜んだのではなく、苦しみにあった時、神様の言葉が彼に光りを与え、いのちを与え、真の知識を与えて、その苦しみを乗り越えさせる力と慰めを与えて下さったからです。それで、「これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」言ったのです。それほど神のみことばを学ぶことは良い事(幸せなこと)なのです。
では、試練を通して、神のみことばを学ぶということが、どういう点で幸せにつながるのでしょうか。
今朝は、試練を通し神様が与えて下さる教えと恵みをお話しましょう。(伊藤)
「主の祈り」マタイによる福音書6:9〜15 伊藤 牧師
2004年8月15日
ルカによる福音書十一章には、「主の祈り」を教えられたいきさつが書いてあります。
それによると、ある時、イエス様が祈っておられるところを見ていた弟子たちが、祈り終えたイエス様に、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」と願い出たのに答えて、主ご自身が教えて下さったものでした。
もちろん、イエス様の弟子たちもクリスチャンとして、お祈りをずっとしておりました。しかし、イエス様の祈りの姿を見た時に、自分たちの祈りが貧しく弱々しいことを痛感して、「祈ることを教えてください」と願い出ずにはいられなかったのです。
祈りは、神を信じるようになれば、自然に出来るようになる、と言うようなものではありません。それは「教え」られなければならないものです。ですから多くの教会では、お祈りを中心とした集会を持っているのです。
今朝は、祈りのお手本である「主の祈り」について学びましょう。(伊藤)
「ダビデの人口調査」歴代志上21:1、2 市川副牧師
2004年8月22日
サムエル記下一三章以降には、ダビデの家庭、子供たちのうちに起こった、様々な混乱や事件が記されています。
特に息子アブサロムの反逆によって、ダビデは王宮を離れ、放浪を余儀なくされました。ダビデは民と共にエルサレムの東南、キデロンの谷を渡り、頭をおおい泣きながら、はだしでオリブ山の坂道を登ったと聖書にあります。共にいた人々も頭をおおって泣きながら登り荒野に向かいました。
放浪の後、とうとうエフライムの森で戦いが始まりました。この戦いで、アブサロムの頭がかしの木にかかって宙吊りになるという思いがけない出来事が起こりました。アブサロムの死によってこの内乱は終息しダビデはエルサレムに戻りました。このとき、息子アブサロムの死をあまりに嘆くダビデの様子に、ダビデのために戦った人々はまるで敗者のように帰ったのでした。
ダビデの命令で行われた人口調査は、主の御心にかなわないものでした。(市川)
「感謝できる人生」テサロニケ第一の手紙5:16〜18 宮田 政信
2004年8月29日
聖書の中には「感謝する」「感謝をささげる」「感謝の歌」「感謝のうちに」など「感謝」という言葉がたくさん記されております。
ですから教会では、「感謝」という言葉は日常的に、ごく普通に使われていると思います。
けれども、私たちの住むいまの社会ではどうでしょうか。
「感謝」という言葉は、使われておりますが、その行動を見ると実際には死語に近い状況ではないでしょうか。
感謝の心があれば、不平、不満は遠い所にある、といえるでしょう。
逆に、感謝の心がないと、すぐに不平、不満に結びついてしまうのではないでしょうか。
聖書では、「すべてのことを感謝しなさい」と教えております。病気になっても、試験に落ちても、事故にあっても、それでも感謝しなさい。それは無理だと、と言われるかも知れません。
そこで今日は改めて、聖書で教える「感謝」ということについて、学んでみたいと思います。 (宮田 政信)