礼拝のメッセージ 2004年7月
「使徒信条に生きる」 ローマ人への手紙10:9〜13 伊藤 牧師
2004年7月4日
今回から、毎週礼拝で唱えている「使徒信条」について、しばらく学んでいきたいと導かれています。
「使徒信条」とは、言葉の意味から考えますと、「使徒」とは、十二使徒、つまりキリストの直弟子の十二人をさします。また「信条」の「信」は信仰のことです。「条」は箇条書きにしてあるということです。ですから長い間、この使徒信条は十二弟子たちによって一句ずつ書かれたという伝説があるくらいです。それはともかくとしても、教会の最初にまとまった信仰告白であったことは間違いないようです。
ところで、キリスト教とはどのようなものでしょうか。クリスチャンは、何をどのように信じているのでしょうか。こうした問いに、きわめめて率直に、また簡明に答えているのが使徒信条です。
使徒信条は、わずか数行の中に、クリスチャンが信じ、告白している大切なことはほとんどもれなく含まれているのです。
今朝は、この使徒信条の起源、意味、唱える意義を学びましょう。 (伊藤)
「神様が与える平安」ヨハネによる福音書14:27 伊藤 牧師
2004年7月11日
最後の晩餐の時、イエス様は不安と恐れのために心騒いでいる弟子たちに向かって、平安を与えることを約束されました。イエス様はその平安を、この世の与える平安と対比させて、「わたしの平安」と言いました。
この世が与える平安は、外部の条件に依存した平安です。つまり物事がうまくいっていることからくる平安です。健康の面でも、仕事の面でも、家庭の面でも、別に問題がなく、万事うまくいっていることからくるものです。しかしこの世の平安は、はた目には確かに見えるものも、逆境に遭遇すると崩れ落ちてしまいやすいものだと思います。
これに対して、イエス様が与えると約束された平安は、外部の条件によらず、周囲の状況に左右されない平安です。内面的な、永続的な平安なのです。
イエス様が与える平安は、私たちが平安を得るのを妨げている根源的な、罪、思い煩い、死の問題に打ち勝つことによってもたらされた平安なのです。
今朝は、この「神様が与える平安」の約束をお話したいと思います。(伊藤)
「確信と自由」ペテロの第一の手紙1:18、19 市川副牧師
2004年7月18日
来週は洗礼式が予定されています。神様の恵みのゆえに御名を崇めます。また、皆様のお祈りとご奉仕の実りを今年も与えていただき感謝いたします。
来週、洗礼をお受けになる方々は勿論、救われた私たちは、先祖伝来の空疎な生活からキリストによって解放されたことを確認しましょう。
また、これからの季節は、昔からの行事が地区などで行われることが多く、これらは、いろいろな因習や慣習などによっています。しかし、キリストを信じることによって、確信と真の自由を与えていただきました。
聖書には「先祖伝来の空疎な生活からあがないだされたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずもしみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」とあります。
十字架で流されたキリストの尊い血によって、救われ、解放され、神の言葉、真理に従う新しい生活が始まったのです。そして「心の腰に帯を締め」やがてイエス・キリストが再臨されるときを待ち望みつつ歩み続けましょう。(市川)
「イエスに聞いて歩む」ルカによる福音書9:28〜31 伊藤 牧師
2004年7月25日
今年の洗礼式は、四人の兄弟姉妹たちが受洗致します。主の御名を心から賛美したいと思います。また、皆さんのお祈りとお導きを心から感謝いたします。
ただし、今日の洗礼式は三人です。もう一人の姉妹は都合で、後日洗礼式を行なう予定になりました。
さて、洗礼を受ける方々は、これから本格的に信仰生活に励んで行くわけですが、今後どういう点に心がけて信仰生活を送ればよいのでしょうか。
イエス様が洗礼をお受けになった時、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」という声がありました。同じ内容の言葉が、イエス様が姿変わりをした山上で「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」とあります。そしてこれは、私たちに対する神様の言葉でもあります。
だから、洗礼をお受けになる方々も含めて、私たち人間を救うために神様が選ばれたイエス・キリストに聞き従いながら、クリスチャンとしての歩みをしていくのが何よりも大事なのです。(伊藤)