礼拝のメッセージ 2004年6月
「聖餐式について」 Tコリント11:23〜26 伊藤 牧師
2004年6月6日
洗礼式(バプテスマ)と聖餐式はキリストのご命令によって礼典となった儀式です。
礼典は、キリスト教信仰の中心的真理を表す象徴的儀式です。
聖餐式については、新約聖書中、四箇所に記されています。すなわち、マタイによる福音書二六章二六節〜二八節、マルコによる福音書一四章二二節〜二四節、ルカによる福音書二二章一九節〜二〇節、コリント人への第一の手紙一一章二三節〜二六節です。
聖餐式はキリストが最後の晩餐の時に制定されたものです。バプテスマが新生の象徴として、信仰生活の最初にただ一回与えられるのに対して、聖餐式は、キリストが、十字架上で肉を裂き、血を流されて、私たち救ってくださったことを証するため、繰り返し行なわれます。
こういうわけで、私たちの教会では、毎月第一日曜日にキリストのご命令に従い、聖餐式を行なっているのです。
今朝は、聖餐式について、その制定の起源、目的、意味、聖餐式を受ける正しい態度について学びましょう。(伊藤)
「心の渇きを癒す」ヨハネによる福音書4:1〜4 伊藤 牧師
2004年6月13日
「人生は出会いで決まる」と言われるほど、自分の人生において誰と出会うかは大切です。
聖書に、ひとりのサマリヤの婦人がキリストと出会った記事があります。
彼女は幸福を求めて、自分のやりたいことを自由にやってきました。けれども、決して満足は得られず、町の人々と話すこともためらうような空しい、惨めな生活を送っていたのです。
暑い地方なので、人々は昼間は休んでいます。この婦人は、そのすきをぬうようにして水を汲みに井戸にやってきました。その井戸のそばで彼女はキリストに出会いました。
キリストとのやりとりの中で、キリストは彼女に「わたしが与える水を飲む者は、いつまでもかわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」言いました。
今までは何ものも彼女の心の渇きを癒すことが出来ませんでした。それをこの時キリストは、信じた彼女に与える事ができたのです。 (伊藤)
「聖霊によるビジョン」使徒行伝16:5〜10 伊藤 牧師
2004年6月20日
初代教会時代に、イエス・キリストを信じても、割礼を受けなければ救われないと言う人が出てきました。そこで、信じるだけで救われるという人たちと、そうではないという人たちの間で激しい議論が交わされました。それがエルサレム会議です。その結果、救いはキリストを信じるだけで、他にプラスするものは何にもいらない、という結論に達しました。こうして信仰だけで救われるという福音が守られたのです。その議事録には「聖霊と私たちとは??決めた」と記されてあります。これは使徒達がいかに聖霊により頼み、諸教会を指導していたかがわかります。
使徒行伝十六章五節には「こうして、諸教会はその信仰を強められ、日ごとに数を増していった」と書いてあります。
このように使徒行伝は、聖霊の大きなみわざや、聖霊の働きの結果として、教会が健康で、健全に成長していった姿を記しているのです。
だからいつの時代でも、教会が健康で健全な成長をしていく為には、聖霊の主導による歩みが大切なのです。(伊藤)
「ダビデとバテシバ」サムエル記下、11:1 市川副牧師
2004年6月27日
ダビデは周りの敵に勝利しました。アンモンは残る最後の敵でしたがイスラエルの勝利はすでに見えていました。あとは国の繁栄が待っているだけという、ダビデにとって、勝利と安泰に酔うような、権勢の頂点を迎えようとしていました。
まさにその時、ダビデは罪を犯しました。一つの罪を隠すためにさらに罪を重ねるダビデ。彼が次第に罪に陥ってゆく姿が聖書に隠さず記されています。
ダビデが、預言者ナタンの言葉に非常に怒り「この事をしたその人は死ぬべきである…」と言ったその時、ナタンは「あなたがその人です」とはっきり宣告しました。
ナタンが遣わされるまで、誰もダビデ王のしたことに口をさしはさむ者はいなかったようです。しかし、ダビデは自分が何をしたのかをよく知っていましたし、罪を指摘する者がいなかったとしても、ダビデは自分の罪に苦しんでいました。詩篇三二篇にはダビデ自身の苦しみの言葉が書き残されています。 (市川)