館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2004年3月

「初代教会の中心的課題」 使徒行伝6:1〜7 伊藤 牧師 

2004年3月7日
  初代教会は、使徒行伝を読んでいきますと、一章から四章までは順調な成長発展を遂げていることが分かります。
 しかし、五章においては人間の罪の故に大きな打撃を受けたことがわかります。そして神様がアナニヤ、サッピラ夫妻の罪に対して、厳しい即座の罰をくだされました。この時、教会はどうしてもきよめられる必要があったからです。
 教会がきよめられてから、次に起こった問題は、配給の不公正ということでした。そのためにお互いに感謝の思いが失われていったばかりか、つぶやきはじめたのです。というのは、ギリシャ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人に対して、「自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた」からです。
 問題がない教会はありません。教会も不完全な人間の共同体だからです。
 では、初代教会は、こうした問題をどのように解決し、神の言葉を広め、成長していったのでしょうか。
 今朝は、健全な成長を遂げるためのもう一つの秘訣を学びましょう。(伊藤)

「神に会う備えをせよ」 アモス書4:12 伊藤 牧師 

2004年3月14日
 最近、私は二つの葬儀を行いました。
 葬儀は必要なことですが、悲しい集いです。しかし、神を信じた者が、召された時には、天国への希望が与えられているので、深い慰めを受ける事ができます。
 そして、いつのことかわかりませんが、全ての人は神様の前に出る時が来ます。だから、いつ神様が召して下さっても、喜んで神様の前にでる事が出来るように、神に会う備えをすべきなのです。
 中世の修道士たちは、互いに出会う時、メメント・モリと挨拶をしたそうです。メメント・モリとは、ラテン語で「死を覚えよ」という意味です。それは、死を覚え、今生きている、否、生かされていることを感謝し、今をかけがえのない、二度とこない今を精一杯生き、悔いのない生活をしようと誓い合ったからだそうです。
 だから私たちは、天国に入る備えが出来て、はじめてこの世で確かな歩みが出来るともいえるのです。
 今朝は、一人一人「神に会う備え」が出来ているかを確認しましょう。(伊藤)

「勝利の矢を射よ」 列王紀下13:14〜17 伊藤 牧師 

2004年3月21日
  旧約聖書、列王紀下十三章の出来事は、列王紀下八章に記されているハザエル王が王になることと、イスラエルを圧迫することを告げた記事から四十年あまりがたっています。
 預言者エリシャは、半世紀を越える忠誠を尽くした奉仕の後、死ぬ病気にかかっていました。
 イスラエルのヨアシ王は、エリシャの病気を見舞い、彼との別れを惜しみ、イスラエルをスリヤから救い出してくれた彼に感謝の意を表しました。
 その時、エリシャはヨアシ王の手を取り、東向きの窓を開かせて、矢を射させる象徴的行為により、スリヤに対する王の勝利を約束したのです。「主の救いの矢、スリヤに対する救いの矢」とは、主がこの勝利の背後に働かれることを意味しています。
 エリシャが王に「地を射なさい」と命じたので、王は三度矢を地に射ました。するとエリシャは「あなたは五度も、六度も射るべきだった」と怒ったのです。
 今朝は、このテキストから信仰を持って求める姿勢を事を学びましょう。(伊藤)

「復活のしるし」 歴代志上13:5〜7 伊藤 牧師 

2004年3月28日
ダビデは、エルサレムに都を定めました。神様のご臨在を表す神の箱は長くキリアテ・ヤリムのアビナダブの家に置かれていました。かつてイスラエルは戦いに敗れ、シロにあった幕屋は崩壊し、神の箱の場所は転々としたのです。
今、ダビデは幕屋にあるべき神の箱を、都エルサレムへ運び入れようとしました。このためにイスラエルのえり抜きの者三万人を集めました。
神の箱ははじめ幕屋の至聖所に置かれ、神様の御臨在を表しました。出エジプト記二五章二二節には「その所でわたしはあなたに会い……わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう」とあります。ですから、その搬入には信仰と細心の注意をはらう必要がありました。
ダビデは荘厳な列を組み、新しい車に載せた神の箱のそばに、アビナダブの子供たちがいました。事件はその途上で起きました。アビナダブの息子ウザが裁かれたのです。ここはペレヅ・ウザ(ウザの違反)と呼ばれ、この出来事はダビデに重い教訓を残したのです。 (市川)