館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2004年2月

「うるわしい教会」 使徒行伝4:32〜37 伊藤 牧師 

2004年2月1日
  ペンテコステによって誕生した初代教会は、力強い神様の助けによって躍進を続けていました。
 聖霊に満たされた弟子たちは、彼らの言葉で神様の力強いみわざを語り、人々を救いに導いていきました。
 ペンテコステ以前には、百二十人ほどしかいなかった信徒が、ペテロの説教を聞いた結果、三千人ほどになりました。
 しばらくして後、神殿で開かれた午後三時の祈りにペテロとヨハネが出かけた時、「美しの門」のかたわらに座していた足の萎えた人を癒してあげたことを契機として、ペテロが説教すると、さらに男だけでも五千人という大きな群れに成長していったのです。
 これと平行して生じてきた、時の権力を握っていたサンヘドリン議会からの迫害、圧力等にも屈せず、弟子たちと教会は、ますます大胆に神のみことばを語り続けていったのです。
 今朝は、このような大事な霊的緊張の時代に、信仰のゆえに、すべての物を共有し、主イエスの福音を証する初代教会のうるわしい姿を学びましょう。(伊藤)

「真の神様との出会い」 使徒行伝17:22、23 伊藤 牧師 

2004年2月8日
  今年はギリシャのアテネでオリンピックが開催されます。アテネは近代オリンピックの発祥の地でもあります。
 このアテネの町は、昔から有名で、使徒行伝十七章には、使徒パウロがアテネの町を訪れたことが記してあります。
 この頃アテネは、知的な面で世界の中心都市でした。新約聖書が書かれた時代には、ローマ帝国が世界を制覇していましたが、知的な教育はアテネに依存していたほどです。
 このアテネの町には、三千に及ぶ宗教施設があり、至る所に人間の手で造った偶像が立ち並んでおり、町は神々でひしめきあっていたと言われます。これはアテネの人々の宗教心というより、人々の宗教的不安の現われだと思います。
 パウロは町を巡る中で「知られない神に」と刻まれた祭壇まで見つけました。そこでパウロは、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」と言って、真の神様についてお話をしたのです。
 今朝は、「真の神様との出会い」について学びたいと思います。 (伊藤)

「福音にふさわしい生活」 ピリピ人への手紙1:27〜30 伊藤 牧師 

2004年2月15日
 今日は、礼拝に続いて定期教会総会が開かれます。二千四年度予算審議、「会堂新築関係費」経過報告及び本町伝道所新築工事決算報告、「主たる事務所の変更」に伴う規則一部変更についての議題があります。お祈りを持ってご参加くださいますようにお願いします。
 さて、今朝は「福音にふさわしい生活」について学びたいと思います。
 「福音」という言葉は、原語でユーアンゲリオンと申します。喜びのおとずれという意味があります。
 昔、ペルシャ王ダリヨスは大軍を率いてギリシャのマラトンの丘に上陸しました。この時、ギリシャ軍はペルシャ軍を見事に破りました。その勝利の知らせをアテネに伝えるために四二キロの道のりを一人の兵士が走り、アテネに着くと「われ勝てり」と言って、息絶えたということです。この勝利と喜びの知らせを「福音」といったのです。
 キリストの福音とは、キリストの勝利と喜びの知らせです。キリストが十字架の死と復活によって、人類の罪と死の力を滅ぼして下さったからです。(伊藤)

「イスラエル王ダビデ」 サムエル記下、5:1〜3 市川副牧師 

2004年2月22日
 いよいよダビデが全イスラエルの王となる時がやってきました。ダビデが王となることは、預言者サムエルによってあらかじめ告げられていました。これはサムエル記上一六章にあります。
ダビデは長年、妬みと殺意を抱くサウルに執拗に追われました。この追跡を終わらせる機会は何度かありましたが、神様にゆだねて、神様の時を待ちました。
ギルボア山でサウルと息子たちが戦死した後、将軍アブネルは、サウルの四男イシボセテを王に即位させるため画策しました。この時もダビデは自ら企てを起こすことはしませんでした。サウルの死後しばらくの間混乱状態が続きましたが、サウル側の画策の中に敵は倒れ、全イスラエルはダビデを王としました。ダビデはヘブロンから北上してエルサレムを都に定め、また、「神の箱」をエルサレムに運び入れました。こうしてダビデの王国の基盤が固まりつつありました。このように、ダビデの歩みは、最善へと導かれる神様に、ゆだねた歩みでした。 (市川)

「この最後の者にも」 マタイによる福音書20:1〜8 平山 透 

2004年2月29日  今朝は、教会役員平山透兄が礼拝説教のご奉仕にあたってくださいます。
 以下は平山透兄の導入の文章です。
 イエス様はたとえ話の天才であり、本日のテキストのたとえ話も、聞く者はそのたとえ話の世界にすぐにグイッと引き込まれてしまいます。一度聞いたら忘れられなくなるほど印象的です。そしてハッとするやら、なるほどと思うやら、疑問を感じるやら、いろいろと考えさせられるのです。
 この「葡萄園の労働者」のたとえ話はマタイだけが記し、マタイによる福音書十九章二十七節から三十節の説明をすることから始めています。
 この話はパレスチナで聞く者たちには身近なことでした。一デナリは当時の労働者の一日の平均的賃金で、生活するにはギリギリの額だったようです。
 ユダヤの労働時間は、朝の六時から夕方の六時までの十二時間でした。また賃金はその日のうちに支払う定めがあったそうです。
 今朝は、イエス様のたとえ話「葡萄園の労働者」を学びたいと思います。