礼拝のメッセージ 2003年9月
「わたしはぶどうの木である」 ヨハネによる福音書15:1〜6 伊藤 牧師
2003年9月7日
ヨハネによる福音書には「わたしは……である」という「エゴー・エイミ」を使っているフレーズが七つあります。
今朝は、最後の「わたしはまことのぶどうの木である」というみことばを学びたいと思います。
このみことばは、原文では強調点が「わたし」に置かれていますので「まことのぶどうの木は、このわたしです」と理解するのが正しいと思います。
「わたしは……である」と書かれた七つのみことばは、それぞれイエス様のある働きの面を表しています。
命のパンは養うこと、世の光は照らすこと、羊の門は招き入れること、良い羊飼いは世話をすること、よみがえりであり、いのちであることは、命を与えること、道であり真理であり命であることは導くこと、そして最後のぶどうの木は実を結ばせることです。
イエス様の私たちに対する目的は、「豊かな実を結ばせる」ことです。そのために、ぶどうの木であるイエス様につながっていること、また余分な枝を剪定することを教えているのです。(伊藤)
「ナオミの信仰に倣う」 ルツ記1:1〜6 伊藤 牧師
2003年9月14日
今朝は「敬老の日」の記念礼拝です。そこで、ルツ記に出ている「ナオミ」の信仰について学びたいと願っています。「ナオミ」は旧約聖書、ルツ記の主人公「ルツ」の義理の母です。
彼女が生きていた時代は、ルツ記一章一節に、「さばきづかさが世を治めている頃」と書かれています。
この士師(さばきづかさ)の時代は、イスラエル民族の中の「最暗黒の時代」と言われています。この時代の人々の道徳的状態を象徴的に述べたのが、士師記二十一章二十五節で、「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」と書かれていります。これは上品な書き方で、いわば統制のとれない無政府状態であったということです。哲学者ニーチェなら「神は死んだ」と叫んだでしょう。またある人々は、「神の沈黙の時代」と言ったかもしれません。
こうした非常に暗い「信仰、希望、愛」など見当たらない時代に、ナオミ、ルツ、ボアズのような美しい心の人々がいたことは驚きです。(伊藤)
「エリシャとナアマン」 列王紀下5:1〜5 伊藤 牧師
2003年9月21日
昔、預言者エリシャが活躍していた時代に、隣国スリヤの国にナアマンという将軍がいました。
彼は主君に重んじられていた有力な人でした。彼の胸には、戦いにおいて勝利をもたらしたしるしの勲章がいくつもあったことでしょう。伝説によると、列王紀上二十二章三十四節に書いてある、イスラエルの王アハブの下腹部にあたった矢を射た一人のスリヤ兵こそ、このナアマンであり、列王紀下五章一節の「勝利」とはこの戦いであるといわれています。
彼は国家的行事があれば、そこに重要な招待者のひとりとして招かれていたでしょう。「あなたの尊敬する人物は誰ですか」と問われれば、かつてフランス人がナポレオンをあげたように、当時スリヤにおいてはナアマンの名前が筆頭にあがったでしょう。
しかし彼は「重い皮膚病」をかかえ、とても悩んでいたのです。そこで彼に仕えていた忠実な少女の勧めを受け入れて、預言者エリシャの癒しを求め、イスラエルへ出かけて行くのです。(伊藤)
「喜びのささげもの」 ルカによる福音書7:36〜38 市川副牧師
2003年9月28日
イエス様は、パリサイ人シモンという人に招待されて、彼の家で、ともに食卓についていらっしゃいました。すると、一人の女の人がそっとこの部屋に入って来ました。
この女の人は、聖書には「罪の女」と記されています。その罪深さは自分も認め、周りの人にも知られるほどのものでした。しかし、今は救われて新しい生活に歩み始めた人です。
彼女は、今までにイエス様が大勢の人たちにお話していらっしゃる様子を見たり、自分でもお話を聞いたり、病気をいやしてくださっる様子を見る機会もあったでしょう。お話が少しずつわかると、恵みによって自分も罪をゆるしていただける、ということもわかりました。イエス様のお言葉が心にとどまり、イエス様を信じる気持ちが生じたと思います。罪深い者をも愛し、ゆるしてくださるイエス様を信じて、信仰によって罪の赦しを受け、新しく生きるようにしていただいたのです。この人は今、イエスさまに感謝をささげるため、心に深く決心してやって来たのでした。(市川)