礼拝のメッセージ 2003年7月
「わたしはよい羊飼である」 ヨハネによる福音書10:11〜16 伊藤 牧師
2003年7月6日
ヨハネによる福音書の著者は、この書を書いた目的を二十章三十一節で「あなたがたがイエスは神の子キリスト(メシヤ)であると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」と書いています。それ故に、ヨハネは七つのエゴー・エイミという言葉を用い、イエス様自身がメシヤであることを強調しているのです。
六月は、エゴー・エイミを用いた「わたしは門である」というみことばを学びました。今回は、エゴー・エイミを用いた「わたしはよい羊飼いである」というみことばを学びたいと思います。
イスラエルの国では、どこへ行っても羊を飼っていて、羊飼いが羊を連れて歩く光景はどこででも見ることが出来ました。ですから「わたしはよい羊飼いである」というたとえは、人々にとてもよく理解できることでした。
羊飼いの仕事は、とても大変です。犠牲が多く、命を失うこともありました。また、羊に関しての幅広い知識が必要でした。そして羊を育てていくために豊かな愛情が必要になるからです。(伊藤)
「土の器に持つ宝」 コリント第二の手紙4:7〜10 伊藤 牧師
2003年7月13日
旧約聖書創世記二章には、私たち人間が土から造られた、と書いてあります。
そして三章には、「あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」と書かれています。
一方、新約聖書では、パウロが人間を「土の器」とよび、また他のところでは、私たちを「地から出て土に属し」と言っています。
パウロは、手紙の中で「わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。」と語っています。すなわち「イエス様という宝が、私たちの心にいてくださる」と言っているのです。そこで宝であるイエス様を私たちの心に受け入れるなら、私たちの内に測り知ることの出来ない素晴らしい力が与えられるとあかししているのです。
私たちは確かに弱くて、もろい土の器です。しかしそれを認めて、偉大な宝であるイエス・キリストを信じ、受け入れていくならば、誰でも力強い人生が歩めることを約束しているのです。(伊藤)
「神の平安」 ピリピ人への手紙4:6、7市川副牧師
2003年7月20日
私たちの生活は、常に移り変わっています。
家庭の状況、子供たちの成長に伴う変化、仕事の状況、自分の健康や家族の健康、そして社会や世界の状況も。
このようななかで、心配や不安を抱えないで生きることは不可能に近いことです。また、健康な考え方に基づくなら、心痛めることに多々囲まれています。
聖書で「なにごとも思い煩ってはならない」とあるのは、心配や不安や悲しみ、苛立ちを、自分の中に抱え込み続けて堂々巡りするのでなく、神様の恵みが注がれているのですから、どんな事情にあっても、何事についても、神様の愛とご寛容、ご忍耐を感謝し、具体的な願い事を神様に申し上げ、神様に知っていただきなさい、と勧められています。「そうすれば」すべての理解をはるかに超える神の平安が与えられるのです。これは、あなたの心に神様の平安が与えられ、同時に、神様の尊い助けが与えられるお約束なのです。なんと幸いなことでしょうか。 (市川)
「仰ぎ見る生活」 ヘブル人への手紙12:1、2 伊藤 牧師
2003年7月27日
今日の洗礼式において、五人の兄弟姉
妹が受洗するに至ったことは本当に感 謝です。また大勢の方々が、祈り、導い てくださった事に心から感謝します。
さて、これらの五人の方々は、これから本格的に信仰生活に励んでいくわけですが、今後どういう点に心がけて信仰生活を送ればよいのでしょうか。
ヘブル人への手紙には、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と勧められています。
つまり、ここでクリスチャン生活を徒競走にたとえているのです。競技場で走る者は、みな走りますが、賞を得る者はひとりだけです。
しかしクリスチャン生活という競走においては、主イエス様を見つめながら信仰のコースを走りぬいたランナーには、すべて義の冠を授けてくださる、という約束が書かれています。しかもこの競走には、イエス様が責任を持って完成に至るまで導いてくださるのです。
今朝は、信仰生活の秘訣である「仰ぎ見る生活」についてお話します。(伊藤)