礼拝のメッセージ 2003年5月
「イエス様の祈りに学ぶ」 マルコによる福音書1:35〜39 伊藤 牧師
2003年5月4日
今朝は、礼拝に引き続いて臨時教会総会が開かれます。2002年度の決算審議をします。神様の祝福と恵みを感謝すると同時に、さらに主のみわざが進展していくようにお祈りしていただきたいと思います。また2002年度の総会報告書が配布されますので、読んでいただいて、感謝と共に祈りの課題としていただければ幸いです。
さて今朝は、イエス様の祈りから、祈りの大切さを学びたいと思います。
祈りが大切だということは言うまでもありませんが、その事を知っているのと、実際祈っている事とは別です。
祈りがおろそかになっていても、なんとなく信仰生活を続けられるような所があります。では、あまりお祈りをしないですることと、お祈りを重ねてする事との違いはどこにあるのでしょうか。
それは、私がしている事と、神様が私によってなさっている事の違いです。そのことを最もよく理解しておられたのはイエス様だと思います。
そこで、イエス様の祈りを学び、その模範に倣いましょう。 (伊藤)
「救いの条件」 ローマ人への手紙3:23、24 伊藤 牧師
2003年5月11日
神様はすべての人が救われて、祝福の道を歩んで欲しいと望んでいます。
大勢の方々が教会を訪れますが、その動機は、聖書を読んでみたい、賛美歌を聞きたい、牧師のお話を聞きたい等があります。そして信仰生活に期待していることもさまざまです。
このように、いろんな動機で教会に来て、クリスチャン生活にいろんな期待を持ったとしても、聖書に示されている救いの門を通らないで、救われ、クリスチャンになることは出来ません。
私たちが救われるための条件は次の二つです。
第一は、神様の前に自分は罪人であって、キリストの救いを受け入れる必要を知ることです。これはあまり触れられたくないことかも知れません。しかし、正直に、謙遜に、この勧めを受け入れることが救いにつながるのです。
第二は、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかられたイエス・キリストを信仰によって受け入れることです。
今朝は、私たちが救われるための条件について学びたいと思います。(伊藤)
「エリコとベテル」 列王紀下2:19〜22 伊藤 牧師
2003年5月18日
預言者エリシャはエリヤ先生を天へ見送り、ヨルダン川を渡ってイスラエルに戻ってきた時、最初、エリコに留まりました。
「エリシャ」とは、「神は救いである」という意味です。列王紀下二章から十三章に記されてあるエリシャの記事には、まさに彼がその名前のとおりに生きたことがわかります。エリシャの行動によって、イスラエルに神の救いがもたらされたのです。
列王紀下二章の後半の部分にはエリシャが預言者として、二つの町での最初の活動が記されてあります。
一つは、エリシャがエリコに留まっていた時、この町の人々が「水」のことで助けを求めてやってくるもので、もう一つはベテルに上って行く途中、「子供らがエリシャをあざける」出来事です。
二つの町は有名で、エリコの町を神のさばきが訪れたのは、数世紀前のことです。ベテルの町は、ヤコブが旅の途中に一夜を明かした所です。
今朝は、この二つの町で起こった出来事から神様の教訓を学びたい。(伊藤)
「二人の同労者」 ピリピ人への手紙2:19、20 市川副牧師
2003年5月25日
パウロはこの手紙で、二人の人の名前を挙げて感謝し、賞賛しています。
一人は、今、パウロのそばにいたテモテです。パウロが第二次伝道旅行で、ルステラに行った時から、テモテは伝道旅行に加わり、パウロと一緒でした。テモテについて聖書には「兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。」と記されています。
パウロは今、福音のために捕われていましたが、テモテがそばにいたことは、どんなに心強かったでしょう。しかし、パウロはそのテモテをピリピ教会に遣わしたいと記しています。テモテがキリストを愛し、ピリピの人々を心にかけていたこと、福音に仕え、錬達した働き人であると証しています。
もう一人は、エパフロデトでした。彼については、同労者、戦友と記されています。彼は、ピリピ教会からパウロのところに遣わされて来ましたが、ひん死の病気にかかったのでした。彼について「キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになった」と記しています。 (市川)