礼拝のメッセージ 2003年2月
「わたしが命のパンである」 ヨハネ第一の手紙2:12〜17伊藤 牧師
2003年2月2日
ヨハネによる福音書には「わたしは」何々「である」という特徴的な表現がいくつも出てきます。ギリシャ語で言えば「エゴー・エイミ」という言葉で現されています。これはイエス様がご自分こそメシヤであることの宣言です。
著者ヨハネは、「エゴー・エイミ」の後にいろいろな象徴的なことばを加えて、イエス様がどのような働きをなさるかを世に示しているのです。
「わたしが命のパンである」とは、イエス様がメシヤ(救い主)としての「命のパン」であることを示しています。だから、イエス様を信じる者は、永遠の命が与えられるのです。
人間が生きていくために、必要なパンとは、食べればなくなるパンですが、それと共に、いやそれ以上に永遠の命に至るパンが必要です。ですからイエス様は、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない」とおっしゃられたのです。
今朝は、この「わたしが命のパンである」というみことばを学びたい。(伊藤)
「失望せずに祈ろう」 ルカによる福音書18:1〜8 伊藤 牧師
2003年2月9日
ここでイエス様が「失望せずに常に祈るべきこと」を教えたのは、私たちの信仰生活がいろいろな問題のために、祈れなくなることがあるからだと思います。
ギリシャ語で人間のことをアンスローポスと言います。「上を見上げる」とか「祈る存在」という意味があります。人間は幼い日から死に至るまで、願いと感謝をささげているからでしょう。
しかし、人間は祈ることが苦手です。その原因の一つは、自力で何とかやっていけるという傲慢があること、また祈ってもどうせ駄目だという怠慢があるからだと思います。また祈らなくても神様はいいようにしてくださるという甘えがある時、人は祈ることに真剣でなくなるものです。これらは神様に対する信頼の欠如からきているのです。
イエス様が「失望せずに常に祈る」ことをお命じになったのは、決して強制的な意味からではなく、イエス様に私たちの祈りを聞く用意があるからです。
今朝は、イエス様のたとえ話から、「失望せずに祈ること」を学びたい。(伊藤)
「四人の信仰に学ぶ」 マルコによる福音書2:1〜5 伊藤 牧師
2003年2月16日
今日は、礼拝に続いて定期教会総会が開かれます。二千三年度予算審議、館林キリスト教会本町伝道所新築の提案、会堂新築工事進捗状況報告及び役員選挙等がなされます。祈りをもってご参加くださいますようにお願いします。
さて、イエス様がカペナウムに戻ってきた時、そのことを聞きつけて大勢の人たちがやって来ました。 小さな家の戸口は隙間のないほどいっぱいになりました。イエス様は集まった人たちに、人生で一番大切な神様のみことばをお話になっていました。
その時、四人の友達が中風の人を担架にのせて連れてきました。しかし彼らはイエス様のそばに近づくことが出来ませんでした。そこで、やむを得ず屋根をはぎ、中風の人をイエス様のそばにつりおろしたのです。
この時イエス様は、彼らの行動に表われた信仰をごらんになって、中風の人に罪の赦しを宣言され、彼の病を癒してくださったのです。
今朝は、この四人の信仰を学び、彼らの信仰に倣いたいと思います。(伊藤)
「キリストの謙卑」 ピリピ人への手紙2:1〜3 市川副牧師
2003年2月23日
私たちは、キリストを信じて救われ、主と、兄弟姉妹から、一節のように「愛の励まし」をいただいてきました。これからキリストを信じて、信仰生活に進もうとなさる方々のために、私たちもまた、主の愛と、励ましを分かち合う者でありたいと願います。
主にある人々は「御霊の交わり」のうちに、日々計り知れない恵みをいただいています。なんと幸いでしょうか。
しかし、神様の御前に罪人である私たちは完全ではなく、それぞれに弱さをもっています。その顕著な傾向は、自我の追求、利己的な思いではないでしょうか。これに対して聖書には「へりくだった心」が大切だと教えられています。
キリストは真に謙遜なお方です。
五節は、詳訳聖書で「キリスト・イエスにあったのと同じ態度、謙虚な心があなたがたにもあるようにしなさい。(キリストをあなたがたの謙遜の模範にしなさい)」とあります。六節以降には謙遜の模範であるキリストのお姿、キリストの謙卑のお姿が、さやかに書き表されています。 (市川)