館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2003年1月

「世の光として歩もう」 マタイによる福音書5:14〜16 伊藤 牧師 

2003年1月5日
 マタイによる福音書五章十三節から十六節には、クリスチャンに対する二つの役割・使命が記されています。
 イエス様はそれを「あなたがたは地の塩である」と言い、「あなたがたは世の光である」と言ったのです。
 「わたしは世の光である」と言われたイエス様が、「あなたがたは世の光である」と言ったのは、月が太陽の光を反射して輝くように、クリスチャンがイエス・キリストの光を受けていくならば、輝くことができるということを教えられたのだと思います。
 しかし、もし月に雲がかかってしまうならば、その明かるさはさえぎられてしまうように、私たちの生活が罪の黒雲でさえぎられてしまうならば、イエス様の光を世に輝かせることができなくなってしまうのです。
 塩は溶けることによってその役割を果たしますが、光は外に向かって照らす事によってその役割を果たしていくのです。
 今朝は、私たちが「世の光である」という事について学びましょう。(伊藤)

「神様を味方として歩む」 詩篇121:1、2 伊藤 牧師 

2003年1月12日
  今年も元日には、大勢の人たちが暗いうちから初詣といって神社、仏閣に「家内安全、商売繁盛、息災延命」を願ってお参りにいったようです。
なぜ、多くの人々が普段行かぬ神社、仏閣に初詣にいくのでしょうか。それは「一寸先は闇」という諺もありますように、人間は百年後の星の位置を測定できても、自分の明日の命はわからないという不安があるからです。そういう不安があるので「一年の計は元旦にあり」で神や仏に安全を頼みにいくのです。
このようなこととは全く違って、詩篇百二十一篇には、詩人の天地万物の創造者である主なる神様に対する信頼と平安が歌われています。
詩人は、日々の生活の中に襲い来る困難や戦いに圧倒され、押しつぶされそうになっていました。しかし、自らの眼前に聳え立つ山の頂を仰ぎ見て、神様を味方として歩んでいるなら、助けと守りは天地万物を創造された全能なるお方から来ると確信しているのです。
 今朝は、神様を味方として歩むこの詩人への約束を学びましょう。(伊藤)

「ナボテのぶどう畑」 列王記上21:1〜4 伊藤 牧師 

2003年1月19日
  エリヤは、神様からハザエルに油を注いでスリヤの王とし、またエヒウに油を注いでイスラエルの王とすることと、エリシャを彼の後継者とするために油を注ぐように命じられました。
こうしてしばらくの時が経過しました。エリヤは、表立った働きよりも、後継者たちの育成に力を注ぎ、あちこちに預言者学校(現在の聖書学校のようなもの)を建設していきました。
神様はエリヤに、アハブ、イゼベルの悪政と宗教的迫害にもかかわらず、七千人もの偶像礼拝しない人々がいることを告げています。
おそらくナボテもその一人であったでしょう。彼はエズレルにあったアハブ王の宮殿のそばにぶどう畑を持っていました。
わがままなアハブ王は、そのナボテのぶどう畑を欲しくなり、所有者ナボテに交換か買収を申し出たのです。しかしナボテは、律法によって、先祖の土地は譲れないときっぱりと断ったのです。
 これが発端で事件が起こります。今朝はこの出来事を学びましょう。(伊藤)

「福音の前進」 ピリピ人への手紙1:12〜14 市川副牧師 

2003年1月26日
  パウロはこの手紙で、現在の自分の状況を報告しています。このような報告の例はあまりなく、パウロがどんなに親密にピリピ教会の人々のために祈っていたかをうかがい知ることができます。また、ピリピの人々もパウロのためにどんなに祈っていたことでしょうか。
 パウロが投獄されたことは、福音を伝えたゆえでした。パウロにとって、自由に伝道できずに、投獄されてしまったことは、貴重な時間を浪費するような出来事でした。しかし、パウロはピリピ教会の兄弟姉妹に自分の身に起こったことを知ってもらいたい、すなわち、投獄されていることがかえって、福音の前進に役立つようになったこと、この驚くべき事実を知ってほしい、と記しています。
 福音の宣教のためには、妨げとなってしまう、と思われる出来事も、かえって前進だと言うパウロのことばに、驚くと同時に、パウロの確固とした信仰の姿を見ることができるのです。(市川)