館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2002年10月

「生きる意味、生きる力」 マタイによる福音書4:4 伊藤 牧師 

2002年10月6日
 私たちは、自分の身の回りの物を眺めると、どんなものにも存在している目的があることがわかります。
 テレビは見て楽しむため、椅子は座るため、車は移動するため、カバンはものを入れるためというふうに。
ところが、自分は何のために生き、存在しているのか、わからない人が多いと言われています。そのために、何をやるにも意欲が持てず、無感動、無関心、無責任な行動をとりやすくなっているのではないかと思います。
 イエス様が語られた有名なことばに「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」とあります。
 これは、人の生きる意味、目的は、ただ物質によるのではなく、神様のことばと神様との人格的な交わるの中にあることを教えたものです。
 時計や車に明確な設計者の目的があるように、人を創造された神様は、私たちに対してきちんと目的を持っているのです。この神様を見出す時、本当の生きる意味を発見できるのです。(伊藤)

「幸福な出会い」 マルカによる福音書19:9、10 市川副牧師 

2002年10月13日
 エリコの町にザアカイという人がいました。ザアカイは取税人のかしらで金持ちでした。当時ユダヤは大帝国ローマの支配下にあり、同胞から税金を集めてローマに納める取税人は、ローマの権力をかさに着て、私腹を肥やすケースがほとんどだったようです。ザアカイは「取税人のかしら」で、取りまとめ役ですから相当の金持ちだったようです。勿論同胞のユダヤ人からは白眼視され、ザアカイも駐留のローマ人と付き合う、というようでした。
 ザアカイがこういう生活を選んだのは、多少あくどいやり方でも、金持ちになりさえすれば幸福になれる、と考えたからです。願いどおり金持ちにはなりましたが、幸福にはなれませんでした。親しい友達はなく孤独でした。罪が彼の心や生活を暗く覆っていました。
 このザアカイが喜びと幸福を見出して新しく歩き出したのは、イエスさまにお会いしたときからでした。イエスさまは、迷子のようにさ迷っていたザアカイを捜し出してくださったのです。(市川)

「人生を変える」 コリント人への第二の手紙5:17 植木 武牧師 

2002年10月20日
 今朝の特別礼拝に、小川キリスト教会牧師、植木武先生をお迎えして、聖書のお話をうかがえることは本当に感謝です。
 長年、この館林キリスト教会の所属する福音伝道教団の運営委員としてご活躍なされました。今はもっぱら小川キリスト教会の牧会、伝道に専念しておられます。
 先生の魅力は、何といっても誠実なお人柄だと思います。私は先生とご一緒にイスラエル旅行をさせていただき、よい思い出となりました。
 また、みことばに対する誠実さも先生の魅力の一つです。館林キリスト教会の皆さんが個人的に聖書を読む時に愛用している「みことばの光」の五月号には、先生の「エズラ記」の解説が掲載されています。これを読んで恵まれ、教えられた人も多かったことと思います。
 今朝、先生は「人生を変える」という題でお話下さいます。誰でも、変えられるものなら自分の人生を変えたい、と願っているでしょう。先生はその願いにズバリ聖書から答えてくれます。(伊藤)

「豊かな生命に生きる」 ルカによる福音書12:13〜15 伊藤 牧師 

2002年10月27日
 だれでも一度だけ与えられている人生を有意義に生きたいものです。
 では、どうすれば有意義な人生が送れるのでしょうか。
 イエス様は「人の命は、持ち物にはよらないのである」と言いました。そして一つのたとえ話をもって「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」と教えられました。
 このたとえ話に登場する農夫は、勤勉に働いて多くの収穫を得、富を蓄積し、誰もが認めるような幸せな生活をしていました。しかしイエス様は、豊かな命に生きるとは、決してそういう生き方ではない、と言われているのです。
 豊かな命に生きるとは、自分と物という関係の世界から、真の意味で私たちの命を支配しておられる神様との関係の中で生きるということです。それは神様が私たちのすべての生活を支えていてくださることに対し、感謝の心を持って生きるということだと思います。
 だから、今日も「神様を信じて生きる」歩みこそ、私たちが「豊かな命に生きる」道しるべと言えるのです。(伊藤)