礼拝のメッセージ 2002年8月
「迫害されてきた人の祝福」マタイによる福音書5:10 伊藤 牧師
2002年8月4日
今日のみことばは、山上の説教の八つの祝福の最後のものです。
「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
このみことばを初めて読んだ方は不思議に思われるでしょう。どうして迫害を受ける事が祝福になるのか。また義を行おうとする人、即ち正しい道を歩もうとしている人がなぜ迫害を受けるのか、と。
世の中には、ひとりよがりの信仰とか、自己のイデオロギーや主義のために迫害を受ける人たちもいますが、イエス様はそういう人たちも祝福された人たちだと言ったのではありません。
イエス様が「義のために」と言われたのは、「神の義のために」生きながらなお、この地上にあって迫害を受けている人たちのことを指して言われたのです。昔の預言者たちやイエス様自身も、神の義を語ったために迫害されました。
今朝は、「義のために迫害されてきた人の祝福」について学びたい。(伊藤)
「真の慰め」 コリント人への第二の手紙1:3〜7 伊藤 牧師
2002年8月11日
コリント人への第二の手紙一章三節から七節の短い間に、「慰め」と「患難・苦難」という言葉が交互に記されています。
人生には、苦しみや悩みがつきもので、避けて通ることが出来ないものだと思います。
しかし神様は、いかなる苦しみの時にも逃れる道を備え、私たちを真に慰めてくださるお方です。
新約聖書の原典であるギリシャ語で、慰めは「パラクレーシス」と言い、「パラカレオー」という言葉が元の言葉です。「パラ」とは、「傍らに」で、「カレオー」は「呼ぶ」という意味です。即ち、神様が私たちのそばに来て、私たちの具体的な必要に答えてくださるということです。
イエス・キリストが十字架にかかる前の晩に弟子たちに語られのは、「父は別に助け主を送っていつまでもあなたがたと共におらせて下さる」という約束でした。この「助け主」が「パラクレートス」で、この方こそ、私たちの祈りに応えて下さる慰め主なる神様です。(伊藤)
「オバデヤとエリヤ」 列王記上18:1〜6 伊藤 牧師
2002年8月18日
突如アハブ王の前に姿を現し「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」と宣告したエリヤは、風のように姿を消してしまいました。
それから三年、彼はケリテ川、ザレパテと移動し、なりを潜め、ただじっと神様の時が来るのを待っていました。そして、再び「行って、あなたの身をアハブに示せ」との神様の命令で、彼は王宮に向かって行ったのです。
エリヤが姿を隠している間、イスラエルの情勢は、イゼベルのほしいままになっていました。主の預言者たちは次から次へと殺害され、王宮はバアル信仰の巣と化していたのです。
しかし、こうしたバアル礼拝の真っただ中で、バアルに膝をかがめないオバデヤという人が神様によって生かされていました。しかも彼は、主の預言者百人をイゼベルから救い出し、ほら穴に隠しパンと水で彼らを養っていたのです。
今朝は、この神様を恐れるオバデヤとエリヤの行動から学びたい。(伊藤)
「賢い妻アビガイル」 サムエル記上25:1〜3 市川副牧師
2002年8月25日
22章に、ダビデはアドラムのほら穴に逃れ、彼のもとには、家族を始め多くの人々が集まり四〇〇人にものぼったとあります。サウル王の混乱によって国内も整わず不当な苦しみを受けた人々も多かったでしょう。このような人々が集まってきたようです。危険な亡命生活上、ダビデは父母をモアブの王に一時託しました。
この間もダビデは、外敵から国を守るという使命を忘れませんでした。ペリシテがケイラを攻め、穀物が掠奪されたという情報が届くと、神様に御心を問いつつ、すぐに出かけました。
ダビデは、自分を狙い続けるサウル王が無防備でいるのを、目前にしたことが少なくとも二回ありました。家来達が絶好のチャンスだと促しましたが「わが君は主が油を注がれた方であるから、これに敵して手をのべることはしない」と述べ、直後にこれを知ったサウルは声を上げて泣いたとあります。サウルは、王国がダビデによって堅く立つことを知って立ち去りました。この間のある家族の出来事が今日のお話です。 (市川)