館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2002年7月

「心の清い人の祝福」マタイによる福音書5:9 伊藤 牧師 

2002年7月7日
  イエス様がここで使われた「平和」という言葉は、ヘブル語で「シャローム」と言います。シャロームという言葉は、「人間の最高のしあわせをつくり出すものすべて」、また「人間が果たす最高の役割である、人と人との間の正しい関係」のことであると言われます。
 だからイエス様は「争いを好まない人、平和を愛する人」と語らず、「平和をつくり出す人は、さいわいである」と語られたのです。
 イエス様が山上の説教を語られた頃、地中海世界に、軍事力によって「ローマの平和」をもたらし、「神の子」と呼ばれていたのは、ローマ皇帝ただ一人でした。「汝が平和を欲するなら、戦争の備えをせよ」というローマの諺は、歴史を貫く軍事的知恵なのでしょう。
 しかしイエス様は、力による平和ではなく、愛と和解による平和を教え、この真の平和をつくり出す人としての使命を、無名のガリラヤの弟子たちに託されました。これは神様の知恵なのです。
 今朝は、「平和をつくる人の祝福」について、ご一緒に考えましょう。(伊藤)

「我に返れ」 ルカによる福音書15:11〜14 伊藤 牧師 

2002年7月14日
 イエス様のたとえ話は、そのいずれもがとてもよく知られています。
中でもこの「放蕩息子のたとえ話」は最も有名です。だから多くの人が「たとえ話の中のたとえ話」と言っているのです。
このたとえ話は、クリスチャンであるか否かを問わず、誰の胸にも、「人間の罪とは何であるか」、「罪の悔改めはどうすればよいか」、そして「罪のあるものをかえりみてくださる神の愛がどんなに深いか」をしみじみと語りかけてくれるものです。
 さて、人は自分のしている事がうまくいっている時には、自分を神様のごとく賢い者であるように過信し、神様を敬うことを忘れてしまいます。また反対に事がうまくいかない時には、今度は神様がいないかのように思って悲嘆にくれ、生きる希望さえ見失い易いものです。
 ところが神様は、こうした私たちが悔改めて神様のもとに行く時、愛と赦しをもって迎えてくださるのです。
 イエス様はこのたとえ話で、これを分かり易く教えられたのです。(伊藤)

「神様に喜ばれる信仰生活」 ローマ人への手紙12:1,2 伊藤 牧師 

2002年7月21日
 今日は、礼拝において洗礼式が行われます。
 聖書には、自分の罪を認めて、神様に悔い改め、私たちの身代わりになって十字架で死んでくださった主イエス・キリストを信じることによって救われる、とあります。
 洗礼とは、救われた人が受けるものです。
 キリストを信じた人は、神様が罪を赦してくださり、永遠の命を与え、いつも一緒にいてくださり、喜びと慰めを与えてくださるのです。
 ところが、洗礼を受けるのは、自分で努力して、本当にクリスチャンらしくなってから受けるものだと思っている人がいます。しかしそういうものではありません。洗礼は、完成したクリスチャンの保証マークではないのです。
 洗礼を受けた後も、クリスチャンとしての信仰生活には、いろいろな困難や戦いがあります。
 では、どうすれば「神様に喜ばれる信仰生活」送れるのか。その鍵とも言えるパウロの勧めを学びましょう。(伊藤)

「生き返った息子」 列王記上17:17、18 伊藤 牧師 

2002年7月28日
 列王記上17章の17節の冒頭に書かれている「これらの事の後」は、人生における象徴的な言葉のようにも思います。
 なぜなら人生には、良い結果の後でも、時々やってくる下り坂のような事があるからです。また、社会の事情も、個人の生活の状況も、時と共に変わり、私たちは様々な局面に立たされると思われるからです。
 昔は、明日の生活にも困るというような貧困の生活の中で、毎日不思議と食べ物が与えられ、支えられたことを感謝したクリスチャンは少なくないと思います。また医者からさじを投げられたような病気を神様が癒してくださったという証もたくさんあります。
 しかし「これらの事の後」、神様が御顔を隠されたのではないだろうかと思われるような苦難の中を通される事もあります。列王記上一七章一七節から一八節までの出来事がそれです。
 そこで今朝は、ここに記されている出来事を通して、この婦人の真実な信仰告白を学びたいと思います。  (伊藤)