礼拝のメッセージ 2002年4月
「あわれみ深い人の祝福」 マタイによる福音書5:7 伊藤 牧師
2002年4月7日
山上の説教の八つの祝福は互いに結びついていると言われています。
心の貧しい人たちが祝福されるのは、謙遜だからです。そして、このような人たちは罪に悲しんでいる人たちなので神様から慰められるのです。
五番目の祝福は「あわれみ深い人」です。この祝福は義に飢えかわくと言うことばの次に記されています。
義にあわれみがないと冷酷無情、あるいは慈しみのない義となるでしょう。その反面、あわれみに義がないとすれば無分別なる罪に陥りやすいと思います。ですからキリストは義とあわれみをつなげて弟子たちに語られたのです。
このマタイによる福音書五章七節のみことばは、新約聖書を貫いている原則を示していると思います。
自分の罪が赦された喜びを知った人は、他の人の罪を赦すようになります。自分に対する神様のあわれみを知ると、私たちは他の人に対してあわれみ深くなります。このように、あわれみは、あわれみを知った人が神様から与えられる祝福なのです。(伊藤)
「百卒長の信仰」 ルカによる福音書7:1〜5 伊藤 牧師
2002年4月14日
新約聖書には、何人もの百卒長が登場し、どの百卒長に対しても、皆良い点をあげて書いています。
ここに登場する百卒長は、イエス様からその信仰を賞賛された人です。
百卒長は、彼の頼みにしていた僕が「中風」で苦しんでいたので、かわいそうに思い、医者に見せ、手厚く看護したことと思います。しかしそれでも僕の病気は直らず、今や瀕死の状態でした。
このような時に、彼はイエス様のことを聞きました。そこで、ユダヤ人の長老たちをイエス様の所に遣わし、彼の僕を助けてださるように懇願したのです。
すると、イエス様は、彼の願いを聞き「行ってなおしてあげよう」と言うと、すぐに彼の家に向かわれたのです。
そのことを知った彼は、わたしの配下の兵卒は、「行け」「来い」「せよ」という一言の命令を必ず実行します。イエス様が来て下さらなくても、最高の権威者であるイエス様の一言で、僕は必ずなおります。だから、「ただ、お言葉を下さい」と言ったのです。イエス様は、彼のこの信仰を賞賛したのです。(伊藤)
「ケリテ川のエリヤ」 列王記上17:1〜7 伊藤 牧師
2002年4月21日
聖書中、モーセと並んで傑出した人物といわれるのが預言者エリヤです。
彼の預言者としての働きについては列王記上一七章から列王記下二章までに記されています。
彼はヨルダン川の東、ギレアデのテシベに住みながら、イスラエルの王アハブの政策を憂え、祈っていました。
時に、エリヤは神様に命ぜられたとおり、大胆にも、王アハブの宮殿に出かけて行って、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」と、告げたのです。
では、この預言者エリヤとは、どんな人なのでしょうか。ヤコブの手紙には、「エリヤはわたしたちと同じ人間であった」と書かれています。それは、エリヤが、私たちと同じように弱さを感じ、時には失敗をする人であったということでしょう。しかし、そのエリヤが、「主の言葉のとおり」に従った時、神様の栄光が現わされていったのです。
今朝は、エリヤの生涯から「神は生きておられる」ことを学びたい。(伊藤)
「勝利の後に」 サムエル記上18:6〜9 市川副牧師
2002年4月28日
ダビデはペリシテの巨人ゴリアテを倒し、イスラエルは勝利しました。戦場のあわただしさの中で、サウル王は勝利をもたらしたダビデについて改めて、人物を確認しました。王子ヨナタンは、そばでこの様子を見ていました。ダビデの答えを聞いて、ダビデが神様を固く信じて戦ったことを再確認したことでしょう。ヨナタンはダビデを「自分の命のように愛した」(一節)のでした。
人々は、町に帰還した彼らを歓迎し、ことに、サウル以上にダビデの勇気と勝利を称えました。サウルはこれを非常に怒り、ダビデに対して敵意を抱くようになりました。それは混乱した感情を伴い、ダビデが今までのように琴を弾いて仕えても、かえって怒りを増す状態でした。サウル王は、神様の御心から逸脱して歩むことを繰り返していましたので、神様もサウルから離れ、放置なさるという最も恐ろしい状態にありました。
ダビデは信仰と忍耐を持って、この状態の中で、仕えることになります。
王子ヨナタンがダビデに示した愛は主にある比類のない愛でした。(市川)