館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2002年1月

「祝福された慰め」マタイによる福音書5:4 伊藤 牧師 

2001年1月6日
全世界の人々の中で「私は幸福になりたくない」という人はひとりもいないでしょう。
しかし、人々がその幸福をどのように求めているかを見たり、聞いたりすると寒気を感じるようなことがあります。実に多くの人が間違った方法で幸福を手に入れたいと願い、悲劇に遭遇しているのです。そして、この欲望から生じた悲惨な結末が新聞の三面記事にたびたび記されているのです。
今年は、山上の説教の八つの祝福のみことばを生活の指針として、クリスチャンに注がれている祝福を知り、真の幸福を十分に味わいたいと願います。
元日の「心の貧しい人たちは、さいわいである」の次は、「悲しんでいる人たちは。さいわいである」のみ言葉です。
一般的には、悲しむ人は不幸だと思われています。そこで、できる限り悲しみを減らす努力をしているのです。
 今朝は、イエス様がなぜ「悲しんでいる者は幸いである」とおっしゃったのか。また、どんな「慰め」が与えられるのかを学びたいと思います。 (伊藤)

「キリストとの出会い」 ヨハネによる福音書1:43〜46 伊藤 牧師 

2001年1月13日
 キリスト教の読み物である「百万人の福音」の特集として、三回にわたって「神様との出会い」をテーマとした証の記事が掲載されました。
 当教会の江森五男さんは、その感想を「私自身も四十年間の教会生活の中で、いろんな人に出会ってきましたが、わが人生最高の出会いは『イエス・キリスト』その人との出会い、人生が変わり、今日の私があるということです」と「百万人の福音」に投稿しています。
 聖書の中には、イエス・キリストとの出会いの出来事がたくさん記してあります。
 「ナタナエル」もそのうちの一人です。彼はピリポに連れられてキリストのもとにやって来ました。
 イエス・キリストは彼のことを「偽りのない人」、つまり真実な人と紹介しています。
 そして多くの聖書学者は、このナタナエルのことを「神に知られ、愛されていた人」と呼んでいます。
 今朝は、この「キリストとナタナエルとの出会い」をお話します。 (伊藤)

「主が家を建てる」 詩篇127:1、2  伊藤 牧師 

2001年1月13日
 ベンジャミン・フランクリンは憲法会議編成の演説で、「一羽のすずめさえ、み許しがなければ地に落ちない。まして国が栄え守られていくために神の助けは必須である」と述べたといいます。そして、この詩篇一二七篇一節を引用し、今後議会に集合するごとに毎朝祈りをもって始めることを提案し、それが今に至っていると言います。
一般に、おそく起きて美食し、怠慢に生活することを戒め、早く起きて勤勉に働くことを奨励するのが普通だと思います。
しかし、ここでは「勤労」と「早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べる」ことも、それだけでは「むなしい」と言っています。
なぜなら、「主(神)が家を建てるのでなければ」ということ、つまり、人生において、神の助けこそ重要であると教えているからです。
 会堂新築という大事業を目前にして、今朝は、詩篇一二七篇一、二節のみことばをご一緒に学びたいと思います。 (伊藤)

「神の作品」 エペソ人への手紙、2:10 市川副牧師 

2001年1月27日
「作品」は、それを作った制作者がいます。制作者が自分のイメージや目的にそって、作り上げたものが作品です。
聖書には「わたしたちは神の作品であって」とあり、わたしたち一人一人が「作品」であり、しかも神様が造ってくださったと記されています。神様はわたしたち一人一人を愛してご自分のお考えとご目的にそってお造りくださり、命と人生を備えてくださいました。
しかし、残念なことに、わたしたちは神様を知らずに、神様に背を向けてきました。神様を見失うとともに、生きる意味をも見失ってしまったのです。ですから時に、自分が偶然に、無目的に存在しているかのように考えたり、何のために生まれ、何のために生きているのかわからない、という苦しみを味わうのです。そして、一度限りの大切な人生を空しく過ごすことにもなりかねません。
しかし、キリストを知り、キリストを信じるなら、新しく造りかえられ、「神の作品」として造られた、本来の意味と目的にかなって生かされることができるのです。(市川)