礼拝のメッセージ 2001年12月
「弱さを誇る」 コリント第二の手紙12:9、10 伊藤 牧師
2001年12月2日
弱く思われたくない、りっぱで、かっこよく、強いものでありたいのは人々の願いです。
強ければ、人を動かす事が出来るし、賞賛はされるし、自分も心地よい気分に浸れる事が多いからです。そしてコリント人への第二の手紙の著者パウロは、強く、しかも沢山の誇るべきものをもっていました。
でもパウロは、ここで「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」と言っているのです。
確かに、誰でもアキレス腱、弁慶の泣き所などという言葉があるように、どんなに強く見えるような人でも弱さというものをもっています。
しかし多くの人々が、その弱さを隠し、何かとすり替えて生きているのではないでしょうか。即ち弱さを見せまい、見せまいとして苦しみ悶えて生きているのではないかと思うのです。
では、パウロがなぜ「弱さを誇る」と言ったのでしょうか。それは「キリストの力がわたしに宿る」ためなのです。今朝は、この真理を学びましょう。(伊藤)
「最初のクリスマス」 ルカによる福音書2:1〜3 市川副牧師
2001年12月9日
イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスを迎えようとしています。
私たちは、聖書のお言葉によって、キリストご降誕の様子を知ることができます。
「そのころ」(一節)とは、キリストがお生まれくださる、そのときでした。聖書には、当時、世界を治めていた人物が記されています。「(ローマ)皇帝アウグスト」。シリヤの総督「クレニオ」。彼らについては、歴史上実在の人物であることがはっきりしています。場所についても、ローマ、シリヤ、ベツレヘムなど明確です。聖書は、キリストのご降誕が確かに歴史上の事実であることを、私たちに語っています。
そのお生まれは、貧しく、心細い旅先でのことでした。「客間には彼らのいる余地がなかった」(7節)とあります。キリストのお生まれに気づいた人々は、ほとんどいませんでした。
しかし、救い主を長い間待ち望んでいた羊飼いたちは、世界で最初に、幼な子キリストにお会いするという光栄に与りました。(市川)
「患難を誇る」 ローマ人への手紙5:3〜5 伊藤 牧師
2001年12月16日
「十字架を誇る」「弱さを誇る」と言ったパウロは、今度は「患難をも誇る」と言っています。
ローマ人への手紙五章三節の「喜ぶ」は、「誇る」とも訳せる言葉です。事実、新共同訳も新契約聖書も多くの個人訳聖書も「誇る」と訳しています。
救われて義とされたパウロが、二節では「神の栄光にあずかる希望を持って喜んでいる」と言うと同時に、「それだけではなく患難をも喜んでいる」と言っているのには驚かされます。
患難の中にありながら、それを「誇る」などあり得るでしょうか。私たちの苦痛を引き起こすものの中に、どうして喜びを見出せるでしょうか。
それは、私たちが患難そのものを喜ぶというよりは、むしろ患難がもたらすよい結果を喜ぶということなのです。
私たちは自分を傷つけて喜ぶ者でも、歯ぎしりして我慢する禁欲主義者でもありません。患難の中にみわざをなしておられる、恵み深い神のご目的を見るからです。
今朝は、この真理を学びたい。(伊藤)
「クリスマスの星」 マタイ2:1〜3 伊藤 牧師
2001年12月23日
キリストの降誕を伝える聖書記事で印象的に残るものの一つは、博士たちをエルサレムへ、そしてベツレヘムに呼び寄せた、あの不思議な星のことだと思います。
この星について福音書記者マタイは、第2章2、7、9、10節と四回も書いています。2節には「わたしたちは東の方でその星を見た」とあり、9節には「彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった」とあります。
この星を頼りにエルサレムまで来た博士たちは、ペルシャの国の祭司でした。マギと呼ばれ、医術、占星術、錬金術に優れ、王の顧問として民を導く立場にある人々でした。彼らはギリシャ語訳旧約聖書、即ちセプチュアジュントを読んで、救い主の預言を知り、今そこに記された不思議な星の出現を観測したので預言の成就を確かめ、また救い主にお目にかかるために、千里を遠しとせず、はるばるユダヤにまで来たのです。
今朝は、この博士たちを通し、クリスマスの意義を学びましょう。(伊藤)
「解放と希望」 イザヤ書、40:1,2 市川副牧師
2001年12月30日
一年の最後の礼拝を、皆さまと共に守らせていただける尊い御恵みを感謝いたします。私たちは、今年も神様の御恵みと計り知れない御助けの中に歩ませていただきました。
世界の情勢は目まぐるしく変化し、国々、民族、人々の終りのない摩擦や戦いが続いています。私たちの日常生活には、情報が溢れ、家庭に、子供たちの生活にこの時代のいろいろな影響が押し寄せています。社会では心痛む事件が毎日のように起こっています。
このような中で、揺るがされない視点を、聖書に見出させていただけることはなんと幸いでしょうか。
イザヤは、その時代の状況に苦しみ、自らの罪に苦しみながらも神様に目を向けようとしない人々に、み言葉を語り続けました。四〇章では、彼らは罪の刈り取りをした後その苦しみは終り、解放と希望の時が来る、というメッセージを語るように導かれました。これは変わらない御言葉に基づくお約束で、やがて実現する「神の国」への希望のメッセージでもあります。 (市川)