館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2001年11月

「万事を益にされる神」  ローマ人への手紙8:28 伊藤 牧師 

2001年11月4日
 ローマ人への手紙八章二八節の「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」は、慰めに満ちたみことばとして、多くの人が愛唱している聖句だと思います。
 そしてこのみことばほど、試練にある人たちに限りない励ましを与えてきたみことばは少ないと思います。
 パウロは、私たちの人生に起こってくる事柄は、すべて神様によって計画されたものである、という信仰を持っていました。つまり神様の摂理というものに対して、はっきりした確信を持っていたのです。だからパウロは、「万事が益」となることを信じて、神様に感謝をしているのです。
 今朝は、礼拝に続き、会堂用地購入等のための臨時教会総会が開かれます。教会が移転し、新会堂を建てるということは、大変な事業であります。
 しかし、今まで導き助けられた神様が、「万事を益」にしてくださることを覚え、前進していきましょう。(伊藤)

「新たなる出発」  ヨハネによる福音書3:1〜3 伊藤 牧師 

2001年11月11日
 「人生は出会いで決まる」と言われたりします。人との出会い、本との出会い、物との出会いで、自分の人生の方向が決まる人も少なくありません。
 しかし、人は誰でも新たな出発をするためには、神との出会いを経験しなければなりません。
 苦しみと悲惨な経験を通して、苦い教訓を学びました。できるならもう一度生まれ変わりたい、新たに出発点にたってやり直しができないだろうかと思って、日々の生活を送っておられる方もいると思います。
 老宗教家ニコデモという人もそうでした。彼は周りの人々からは偉大な人物として尊敬を集めていました。しかし、彼は自分の生活に限界を感じ、困り果てていたのです。  キリストは、そんなニコデモの根本的な問題を見抜いて「だれでも新しく生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われたのです。
 このキリストとの出会いが、彼にとって「新たな出発」となりました。今朝はこの二人の対話から学びたい。(伊藤)

「十字架を誇る」 ガラテヤ人への手紙6章14節 伊藤 牧師 

2001年11月18日
 今日から三回にわたって、クリスチャンは何を「誇り」として生きるのか、ということについてパウロの手紙から学びたいと思います。
 パウロはガラテヤ人への手紙では「十字架を誇る」といい、コリント人への第二の手紙では「弱さを誇る」といい、ローマ人への「手紙では「患難を誇る」と言っています。
 私たち人間が生きていくために必要なものに空気、水、食物、衣服などがあります。けれども私たち人間には「誇り」がなければ生きていくことができないと思います。
 プライドというと何だか悪い印象を持つかと思いますが、正しい意味でのプライド、誇りというものを私たちは持っている必要があります。
 けれども私たちは、誇りとすべきでないものを誇ったり、間違った誇りを持つ危険性がいつもあると思います。
 そこで今朝は、パウロが「十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない」と言った所から、私たちの誇りとすべきものをお話します。(伊藤)

「神の平安」 ピリピ人への手紙4:6、7 市川副牧師 

2001年11月25日
 人それぞれかかりやすい病気があるようです。風邪を引きやすい人、なにかにつけて、おなかの調子がよくない人もいます。
 「思い煩い」は、心、気持ちの上で、だれもがかかりやすい煩い、病気のようです。あることが心配で仕方がない、気がつくと、一つの悩みに心が集中して、ほかのことが思うようにできない、堂々巡りをして、ますます悩みが増幅する。こうなると、気持ちが疲れきってしまい、どうしてよいかわからなくなります。本当に心の、気持ちの「煩い」です。
 「そんなに思いつめることはないよ」「気持ちを楽にして」と慰められても、気持ちは好転しません。きっと、「思いつめなくてよい」「気持ちを楽にしてよい」という、確かな理由がつかめないので、本当に気持ちを楽にできないのだと思います。
 しかし、神様を知り、心を静めて神様に祈るなら、お約束のように、不思議な平安で心が守られるのです。神様がすべてを知り、助けを備えてくださるからです。(市川)