礼拝のメッセージ 2001年7月
「アイの町の攻略」 ヨシュア記8:1〜7 伊藤 牧師
2001年7月1日
エリコの戦いで大勝利したイスラエルも、小さな町アイとの戦いでは惨めな敗北を帰しました。そこでイスラエルの人々は、自分たちの罪を悔い改め、罪を犯した張本人のアカン一家をアコルの谷で処罰したのです。こうしてイスラエルの人々が、罪を除き去り、立ち上がっていく経緯を七章で学びました。
しかし、敗北の後遺症は、まだイスラエル全体に色濃く残っていたことと思います。特にヨシュアは、主の激しい怒りが去った後も意気消沈していたのです。このようなヨシュアに主は、「恐れてはならない、おののいてはならない」と言って励まされたのです。
神様の励ましによって立ち上がったヨシュアは、今度、祈りと用意周到な作戦計画を立てて、この戦いにのぞみました。そして見事に勝利するのです。
イスラエルとアイとの戦いを戦術の面から見ると、第一回目は、エリコに勝って油断していたイスラエルが負け、第二回目は、イスラエルに勝って油断していたアイが負けているといえます。まさに「油断大敵」の実例です。(伊藤)
「仰ぎ見て救われよ」 ヨハネによる福音書3:14〜16 伊藤 牧師
2001年7月8日
ある夜、ユダヤ人の指導者で人々から尊敬されていたニコデモという人が、イエス様の所に来て、神様と一緒の生活をするにはどうすればよいかを尋ねてきました。
そこでイエス様が、救いの道を話したのですが、ニコデモにはどうしても理解できませんでした。その時、イエス様はユダヤ人に強烈な印象として残っている、荒野でさおに上げられた青銅のへびを仰いで救われた話をしたのです。
昔、イスラエルの民がシナイ半島の荒野を四十年間放浪した時、彼らは度々、神とモーセにつぶやきました。そこで神は火のへびを送り彼らをさばかれました。すると彼らは自分たちの罪をお詫びしてモーセに助けを求めました。モーセの祈りを聞かれた神は、荒野でさおに青銅のへびを造って掲げさせ、それを仰ぐなら生きるという、救いの道を示されたのです(民数記二十一章)。
同様に、罪深い私たちも、自分の罪をお詫びし、キリストを信じて十字架を仰ぐなら救われるのです。今朝はこの救いの道を学びたいと思います。(伊藤)
「確信と自由」 ペテロの第一の手紙1:18、19 市川副牧師
2001年7月15日
来週は洗礼式が予定されています。神様の恵みのゆえに御名を崇めます。また、皆様のお祈りとご奉仕の実りを今年も与えていただき感謝いたします。
来週、洗礼をお受けになる方々は勿論、救われた私たちは、先祖伝来の空疎な生活からキリストによって解放されたことを確認しましょう。
また、これからの季節は、昔からの行事が地区などで行われることが多く、これらは、いろいろな因習や慣習などによっています。しかし、キリストを信じることによって、確信と真の自由を与えていただきました。
聖書には「先祖伝来の空疎な生活からあがないだされたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずもしみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」とあります。
十字架で流されたキリストの尊い血によって、救われ、解放され、神の言葉、真理に従う新しい生活が始まったのです。そして「心の腰に帯を締め」やがてイエス・キリストが再臨されるときを待ち望みつつ歩み続けましょう。(市川)
「洗礼の意味」 ローマ人への手紙6:1〜4 伊藤 牧師
2001年7月22日
今日の洗礼式において、三名の兄弟姉妹が受洗するに至ったことは本当に感謝です。
また大勢の方々が、祈り、導いてくださったことに心から感謝します。
洗礼は、言うまでもなく、イエス・キリストを信じた人が、キリストのからだである教会に加わるために、キリストに対する信仰を見える形で公に表明するために行う儀式です。キリストが定めてくださった聖餐式と共に、世の終わりまで教会が大切に守り行うように主イエス様が定められた礼典です。
ある神学者は、キリストが定めてくださったこの二つの礼典を「見えることば」と呼んでいます。それは説教において宣べられる神のことばが、この二つの礼典において、見えるかたちで、私たちに確認できるからです。
さて、洗礼の意味は三つあると思います。第一が「象徴としての意味」、第二が「告白としての意味」、そして第三が「証としての意味」です。
今朝は、「洗礼の意味」についてご一緒に考えてみたいと思います。(伊藤)
「信仰と行ない」 ヤコブの手紙2:14〜16 篠原 貞雄
2001年7月29日
館林キリスト教会が誇れる一つに大勢の信徒説教家がいることだと思います。そしてこれは、小林牧師が私たちにくださった大いなる遺産の一つです。
今日はその一人である篠原貞雄兄がメッセージを取り次いでくださることは感謝です。
ヤコブの手紙を通して、「信仰と行ない」について、聖書を解き明かしてくださいます。宗教改革者のマルチン・ルターは、このヤコブの手紙を「藁(わら)の書簡」と呼んで軽く見ていたようです。なぜなら「救い」に関してあまりに「行ない」を強調し、「信仰」による救いを軽視しているように見えるからです。この点でローマ人への手紙と考えを異にするように見えるためです。
しかし、決してヤコブは信仰に反対して語っているのではないのです。それどころか信仰を擁護するために語っていると、ある神学者は言っています。
今朝は、この手紙の真意をどのように語られるかわかりませんが、篠原兄のご奉仕が神様に用いられるように祈りつつ、耳を傾けお聞きください。(伊藤)