館林キリスト教会

Sub Menu

伊藤牧師 コラム集(5)

 価値ある人生 2007年5月6日

 人は誰でも価値のないものよりも価値のあるものを求めます。カバンも靴も着るものもブランド品、車は新車、住む家はアパートよりも庭付きの一戸建てというふうに、より上等なもの、より高価なものを求めるのは人間の自然な気持ちだと思います。それはただ物だけに限らず、私たちの人生のあり方に対しても同じだと思います。すべての人が「価値ある人生を送りたい」、「生きてきて本当によかった」と思える一生でありたいと願っているのではないでしょうか。しかし現実は、自分の人生についてじっくりと考える事もなく、時間に流され、流行に心を奪われて、とにかく、その日その日を過ごしているという状態ではないでしょうか。聖書はそんな人間の生き方を、神様から失われた存在だと教えています。
 イエス様が話してくださったたとえ話の中に「なくした1枚の銀貨」というのがあります。ある時、銀貨10枚を持っていた婦人が、自分の銀貨を一枚なくしてしまいました。婦人は、あかりをつけ、家の中の隅々まで丁寧に捜しました。そしてやっとのことでその銀貨を見つけました。そして婦人は大喜びで友だちや近所の人々に知らせ、一緒に喜んでもらったというのです。この失った銀貨は、価値を失っている人間の姿を表しています。銀貨が、この婦人の手にある時は、価値があります。しかし、家具の後ろや玄関の片隅に落ちていては何の役にも立ちません。同様に、人間も神様から離れている状態では価値を失っているのです。ですからイエス様は、人々に神様のもとへ戻り、価値ある人生を送るように勧めているのです。

 心の安らぎ 2007年6月3、10日

 入社した新入社員や大学に入学した学生が1、2ケ月してよくおこす病気の1つに5月病というのがあります。しかしこのごろは、若者や大学生の無気力症が慢性かつ一般化して、特別5月病と呼ばなくても、むしろ1年中、5月病のような状態を続ける人が増えているので、5月病はもはや年間病になってしまったと言う人もいるくらいです。ではこの悩みは、新入社員や大学生だけのものでしょうか。
 パスカルは「人間は一本の葦である。しかし考える葦である」といった。彼はまた「パンセ」の中で「この世の人はみな悩んでいる。王様も貴族も、若者も老人も、すべての人が苦悩の生活を営んでいる」と言っています。たしかに人は、それぞれ言うに言えない重荷を背負っているのではないでしょうか。あなたも何かの苦労を背負っているかもしれない。経済的苦労、精神的苦労、肉体的苦労、病気、事業の失敗、人間関係の破滅、愛情の破綻などなど、、、。新聞にもそういう痛ましい記事が毎日掲載されています。考えてみますと、いずれも人生の重荷をおろす場所を知らないところから起こった悲劇とも言えるのではないでしょうか。
今回は、古今東西、全世界の重荷を負って苦労しているすべての人に対し、語られているキリストの言葉をお知らせしたいと思います。
それはイエス・キリストの「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言う有名なことばです
疲れた人に対する最高のプレゼントは「休み」でしょう。この言葉は、現在、「疲れた人、重荷を負っている人」に対し、また助けを必要とする人に向けられているイエス・キリストの招きです。多くの人が、この招きに応じてキリストを信じ、この不思議な心の休み、平安を経験しています。キリストの言葉はいまも生きています。そしてあなたに向かって呼びかけているのです。
あなたも神にある安らぎを経験してくださるようおすすめ致します。

 人生のしおり 2007年7月1日

 私たちは本を読むとき、「しおり」を挟んでどこまで読んだかという目じるしにしたりします。また「修学旅行のしおり」などと言って「しおり」が案内書の意味にも使われたりするのをご存知だと思います。
 この「しおり」という言葉は、昔、山奥に入った時、道に迷わないように、分かれ道の所に来ると木の枝を折り曲げて目じるしにしたことから、この言葉が出来たと言われます。
 私たちは人生においてさまざまな出来事があります。誕生、入学、卒業、就職、結婚、老後の生活、引越し。あるいは事故、トラブル、死別などで、事情によっては苦悩をよぎなくされる方もいるでしょう。これらの出来事は、私たちが大切な人生の分かれ道に立たされることだといえます。
 旧約聖書のエレミヤ書6章16節に「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。」とあります。聖書の言葉は、人生の分かれ道に立たされる時私たちの心に平安と勇気を与え、良い助けとなり、祝福へと導いてくれるものとして大いに役に立つものです。(
 弱さを誇ろう

 弱さを誇ろう 2007年8月5日、12日

 人々に弱く思われたくない、りっぱで、かっこよく、強いものでありたいというのは人々の願いです。しかし、弁慶の泣き所というように、誰でもそれぞれ弱さを持っています。疲労がたまるとそれが歯にでて、歯痛に悩まされる人もいます。肩こり、頭痛になる人もいます。体の弱さもありますが、人は心の弱さも持っています。けれどもその弱さを人に見せたくないと無理をしている人も少なくないかも知れません。キリスト教の伝道者で、新約聖書の3分の2を書いたパウロ先生は、聖書の中で「キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで弱さを誇ろう」と言っています。
 実は、パウロ先生はてんかんのような持病がありました。しかもその病気は、パウロ先生が大事なお話をする時にいつも障害になりました。ですからパウロ先生は、ひたすらてんかんが治るようにお祈りしました。そのパウロ先生の祈りに対して神様は「私の恵みはあなたに対して十分である」とお答えになったのです。どうしてでしょうか
   弱さはパウロ先生を神様の前に謙遜にしました。そこに神様の素晴らしい力が現されていったのです。低い谷が豊かな水で潤されるように、謙遜な人は神様の豊な恵みに生きることができると教えているのです。
 朝日新聞の天声人語で深代惇郎は「徒然草の中に『友とするにわろき者7つあり』として、その1つに「病なく身強き人」を上げています。病気1つしない人は自分の健康に満足して、他人に対する思いやりがないことへの戒めです。だから「五体満足という救うべからざる病もあります」と言っています。
 私達も、さまざまな病気や困難に遭遇します。そのようなときにも、いたずらに嘆かず、目を上げてイエス・キリストを受け入れていくならば、その弱さがかえって神の恵みとなり、自分を完成し、人間関係を整え、大きな祝福の基となっていくのです。