館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 1998年10月

オアシスに繁る木  詩篇1:1〜3 小林 牧師 

1998年10月4日
 今朝お話する詩篇第一篇には、一人の紳士が出てきます。仮に名前を「ミスター・ハッピネス」と呼びましょうか。 この人の日常を見ると、まず彼が「嘲るものの座」つまり、神様、正義、人のりっぱな行為などを馬鹿にし、人の悪口や陰口をきいて面白がるような、そんな人たちの仲間になって一緒に喋っている。そんな彼の姿を見かけたことがない。彼がそんな連中と同座するのを、見たことがない。 また彼は決して、仲間と一緒に悪い計画をして、それを実行することもない。 またいわゆる「悪所」。この道を行けば必ず、悪い不潔な地域につながる、そんな道に彼が立っているのを見たことがない。彼はこういう紳士です。 ある人は「つまらない、楽しくない奴だ」と思うでしょう。またある人は「彼は尊敬できる人だ。そんな人と友だちになりたい」と思うでしょう。 聖書には、彼がなぜそういう生活をしているのか。その生活の結果は何か、ということを説明しています。

やすらぎのある生活  マタイ11:28 宮田 耕輔 

1998年10月11日
 徳川家康の遺訓に「人の一生は重き荷を負うてゆくがごとし……」とありますが、人は何らかの重荷を負って苦労しています。育児、進学、結婚、高齢者の問題、愛情の破綻や事業の失敗等々。新聞紙上では、自殺や一家心中など痛ましい事件の記事があとをたちません。いずれもみな人生の重荷をおろす場所を知らないところから起こった出来事ではないでしょうか。 そんな中で、私たちのまわりには「休み」を提供する商売が大繁盛しています。リラックスを得るために香りをたき、イルカと泳ぎ、しまいには超近代的なオフィスビルに小川のせせらぎを聞かせる光景も見られます。しかし、そのようなものは所詮つけ焼き刃にすぎないでしょう。そんな私たちに対してキリストは、 「重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい」と招いてくださるのです。そして「あなたがたを休ませてあげよう」と約束してくださったのです。

恐れるな、たじろぐな  イザヤ書41:10 川島孝子牧師 

1998年10月18日
 今朝お話してくださるのは、高崎教会牧師、川島孝子先生です。 先生は、高校生のころ大泉教会の集会でクリスチャンとなり、やがて献身して牧師になりました。 大泉教会はむかしわたしが先立ちになり、館林教会が伝道してできた教会です。当然私が牧師として大泉教会の集会に通いました。そのころの話です。 だからわたしはまず牧師として、次には聖書学校の教師として、次には運営委員長と牧師として、先生とは師弟関係でした。その間、真実熱心で優秀で、負け嫌いで、いつも良い後輩でした。しかしすでに先生は、すでに長い牧師生活を経験し、高崎近辺に三つも教会を建て、教団の有力な中堅牧師として、後輩の模範になっています。今朝も、先生をとおして、どうぞ神様がその愛の言葉を語りかけてくださるように期待しています。 またわたしたちに「しもべは聞きます。主よお語りください」の心を与えて、メッセージをよく分からせて下さるように、お祈りしています。

人間は神の作品  エペソ人への手紙2:10  小林 牧師 

1998年10月25日
  駅に行くと、旅行に出発する人が大勢いる。その服装や持ち物で、仕事の出張か、スキーや登山か、結婚式に行く人など、旅行の目的が大体わかる。 その中のある人に「あなたはどこへお出かけですか」と聞くと「それが分からないのです。だからどんな支度をしたら良いか、それも分かりません」という人がいたらお気の毒だ。 旅行ならまだ良いが、人生そのものについてそんなだったら大変だ。 シェクスピアはリヤ王に言わせている。「赤子が生まれてすぐ泣くのは、このつらい人生にいきなり産み落とされたことを悲しんで泣くのだ」と。人生はそんなに悲しいものなのか。 大学生時代にクリスチャンになり、後に牧師になったウエスレイは、八十七才の二月にも説教をしたが、その三月に亡くなった。彼の最後の言葉は「神様が一緒にいてくださるのは、最高の幸福だ」というものだった。 あなたは自分の人生について、どんな風に考えていますか。また、聖書はどんな人生観を教えるか。