館林キリスト教会

Contents

礼拝のメッセージ 2007年4月月

「呪いと祝福」 出エジプト記20:3〜6 平山 透 

2007年4月29日
 今朝は、教会役員の平山 透兄が礼拝説教のご奉仕に当って下さいます。
 以下は平山兄の導入の文章です。
 出エジプト記二十章は、モーセの十戒が記されているところです。
 そのほとんどが「してはならない」と記されていますが、新約では、主は「しなさい」と勧めてくださいました。ここに主の恵みを感じざるを得ません。
 ですから私たちはもはや戒律にしばられるのではなく、福音の中に生かされているのだと思います。
 ここでモーセを通して与えられた十戒は、新しい契約ではなく、アブラハムとの契約の発展したものです。なぜならば出エジプト記19章5節に、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。」と記されているからです。
 今朝は、「呪いと祝福」について十戒を通してご一緒に学びたいと思います。        (平山  透)

「生きていらっしゃる神様」 列王紀上17:1〜5 市川副牧師 

2007年4月22日
 ソロモン王の息子レハベアムの時代に、イスラエル王国は南北二つの王朝に分裂しました。北王国イスラエルと南王国ユダです。かつて主なる神様がソロモン王にお語りになったとおりです。王国分裂の最大の原因はソロモン王の偶像礼拝でした。
その後、北王国には主の御心にかなって国をよく治める王様はなく、中でもアハブ王は主の前に悪を行いました。アハブは異教の国シドンの王女イゼベルを妻に迎え、彼女はイスラエルにバアル礼拝を持ち込み盛んに偶像礼拝が行われるようになりました。
預言者エリヤが遣わされたのはこの頃でした。預言者とは主のみ言葉を人々に伝え指導するために、主によって遣わされた人物です。主はイスラエルを愛して、彼らが悔い改めるためにエリヤを遣わしました。エリヤはみ言葉を勇敢に語り、主は大干ばつの中でエリヤを養い、主を信じる者たちを守ってくださいました。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。」というエリヤの言葉のとおりです。 (市川)

「不信仰による失敗」 創世記16:1〜3 伊藤 牧師 

2007年4月15日
  1節に「アブラムの妻サライは子を産まなかった」と書いてあります。主の契約が結ばれたにもかかわらず、すぐには子どもが生まれなかったのです。
 ここにおいて、アブラハムは二回目の失敗をしてしまいます。
アダムとエバの場合にもそうであったように、アブラハムとサラの場合も、信仰の忍耐と神様への服従に失敗したのは、妻の方が先でした。
 神様の約束のものを得るには、いつでも忍耐と服従とが必要です。というのは、神様は約束を与えられるばかりでなく、その約束を成就するために、かならず道を備えていてくださるからです。
だから、たとえ神様の約束を成就させようという動機からだとしても、人間的な策略で事をしようとするなら、必ず失敗をしてしまうのです。
 箴言16章9節に「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」とあるとおりです。
 今朝は、アブハムとサラが、神様の言葉よりも自分の知恵に頼って失敗した事からその教訓を学びましょう。(伊藤)

「岸辺に立つキリスト」 ヨハネ福音書21:1〜7 伊藤 牧師 

2007年4月8日
 主イエス様は、祭司長、律法学者達から命じられた人々に捕われる夜、「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」と弟子たちに告げられました。
 復活されたイエス様は、二度も弟子たちにお会いしていましたが、彼らはイエス様が去られると、また淋しさと失望に襲われてしまったのです。彼らが力強く伝道に専念するようになるのは、ペンテコステにおける助け主聖霊様がおくだりになった後のことです。
今弟子たちは、ガリラヤに戻り、過ぎし日を偲んでいたのです。ペテロは淋しさを紛らわすために、漁にいくことを提案し、彼らは出かけて行きました。しかしその夜は、何の獲物もとることが出来ませんでした。
 夜が明けた頃、復活されたイエス様はガリラヤの岸辺に立っていました。主は彼らのために焼き立ての魚とパンを用意し迎えて下さいました。彼らはどんなにこの愛に慰められたことでしょう。
 今朝は、岸辺に立つ復活のイエス様の姿から、その愛を学びましょう。(伊藤)

「キリストの十字架」 ルカ福音書23:32〜34 市川副牧師 

2007年4月1日
 イエス様は真夜中に、何度も裁判を受け、疲れきっていらっしゃいました。さらに鞭打たれ、十字架につけられるために引き出されました。イエス様はみずから十字架を背負ってゴルゴタに向かわれました。
 ゴルゴタにお着きになると、二人の強盗と一緒に十字架につけられました。一人はイエス様の右に、一人は左に。
 イエス様が十字架でお祈りくださった祈りは有名です。このとき、刑の執行のために、あるいは物見高く、あるいは恐怖と悲しみのうちにたたずんで、多くの人々がイエス様を取り巻いていました。イエス様は、そのすべての人々のために祈られたのでした。しかし、これは、私たちすべての者のための祈りでもあります。
 十字架につけられた一人の強盗は、イエス様を信じて、罪許され「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」とお言葉をいただいたのでした。            (市川)