館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2005年11月

「教会の課題とこれから」 使徒行伝6:1〜7 伊藤 牧師 

2005年11月6日
 使徒行伝6章7節には、「こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。」と書いてあります。
 使徒行伝を学んでいく中で教えられることの一つは、初代教会が絶対に完全だったという印象を訂正してくれることです。それは伝道の成功と教会員数の目覚しい発展を見た初代教会にも、いろいろな問題や課題が生じてきたという事実でわかります。
 信徒の数がふえてくるにつれて、少数の時には可能であったことが、いつの間にか消えていきました。
 信徒の数が増えることは、確かに喜ぶべきことであり、嬉しいことです。しかし教会は、これらの方々をしっかりと育てていくという大きな責任を託されたことでもあるのです。
 館林キリスト教会も、神様の恵みと祝福のうちに大勢の新しい方々が教会においでになっています。
 今朝は「教会の課題とこれから」について神様の導きを求めましょう。(伊藤)

「神はわれらの避け所」 詩篇46:1 伊藤 牧師 

2005年11月13日
  詩篇四十六篇は聖書に書かれてある神様のことをうたった詩です。
一節のみことばは、ドイツの宗教改革者マルチン・ルター自身が作詞作曲し、宗教改革を導いた歌としてよく知られています。
 ルターは十七歳の頃、友人と森を歩いていた時に、落雷にあいました。その時一緒にいた友人は、落雷を受けて亡くなってしまったそうです。
 友人を失ったショックと自分が生き残ったことで、ルターは雷の中で、一生涯神様に仕える決心をしたのです。
 その経験から作ったのが「神はわがやぐら、わが強き盾、苦しめる時のいと近き助けぞ」という賛美歌だそうです。
 私たちの人生は、さまざまな思いがけない出来事にみまわれます。それらはよく突発的に、予測できないタイミングで起こるものです。
 だから、毎日の生活の中で、教会に行き、日々聖書に親しんでいく事はとても大切です。なぜなら、みことばをとおし神様がそのような時に避け所となり、いざという時の力となるからです。(伊藤)

「高慢と謙遜」 ダニエル書4:1〜5 伊藤 牧師 

2005年11月20日
 ダニエル書四章は、ネブカデネザル王が神様のこらしめを受けた後で、見出した真理を、全ての人に告げ知らせるために王の命令で要約されたものである。
その真理とは、「いと高き者(神様)が人間の国を治めて、自分(神様)の意のままに、これを人に与えられることを知るに至る」というものだ。
神様はネブカデネザル王に世界を支配する権利をお与えになった。そして神様は、ダニエル書の二章と三章でも、ご自分がすべての王たちの主であることを彼に知らせている。また神様は「王を廃し、王を立てる」お方であることもダニエルを通し彼に告げている。
 にもかかわらず、ネブカデネザル王は再び神様を忘れて高慢になったのだ。彼は征服した諸国の捕虜を動員し、大バビロン城や宮殿を造らせたりしていた。
 そこで神様は、ネブカデネザル王に対し、夢を通して悔い改めの機会を与えられたのだ。
 その時王は、自分の高慢を悔い改め、へりくだって神様をあがめ、ほめたたえたのである。 (伊藤)

「変わらない神様の言葉」 イザヤ書40:6〜8 市川副牧師 

2005年11月27日
  聖書は神様のお言葉です。変わらない約束の言葉です。イザヤ書四十章八節には「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」。とあります。神様ご自身が変わらないご真実な方ですからお言葉も変わらず、真実です。
 神様は親が子を愛するようにわたしたちをいつくしんでくださいます。「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」。という者に対して、
  「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない」。 (イザヤ書49章15節)
   とおっしゃる方です。
 さらに滅びに向かっている私たちを救うために、御子をおくり、御子イエス・キリストが十字架で死んでくださいました。パウロは神様の約束を信じて「人の義とされるのは…ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである」とガラテヤ人への手紙2章16節に記しました。  (市川)