館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2003年6月

「わたしは門である」 ヨハネによる福音書10:7〜10 伊藤 牧師 

2003年6月1日
  聖書の地、イスラエルの地方では、羊の飼育が昔から盛んです。
 イエス様は、人々の日常生活から身近なたとえでお話する名人でした。
 イエス様がおっしゃった「わたしは羊の門である」、「わたしは門である」などの比喩的表現は、昔の羊飼いの生活がわかるとよく理解出来る言葉です。
 暖かい季節の間は、羊が高原に放牧されていて、夜、村に帰る必要がない場合には、羊の群れは丘の中腹の簡単に作られた羊の囲いの中に入れられるそうです。そこは囲いだけで、入り口は取り付けられていましたが、門も扉もありませんでした。そして羊飼いは、その入り口で寝たのです。そうすると、羊飼いの身体を飛び越えない限り、羊は外に出ることが出来ません。また狼や獣も彼を飛び越えて来ない限り羊を襲うことは出来ないのです。ですから文字通りに羊飼いは門だったのです。
 こうしてイエス様は、エゴー・エイミという言葉を用いて、わたしこそ、わたしだけが、人を救う唯一の「門」であることを強調したのです。  (伊藤)

「聖霊に満たされなさい」 エペソ人への手紙5:15〜19 伊藤 牧師 

2003年6月8日
  教会暦では、イエス様が復活されてから五十日目をペンテコステ(聖霊降臨日)と呼んで記念の日としています。
 聖書は、神はただお一人と教えています。しかしその働きによって、父なる神、子なる神、聖霊なる神と呼ばれています。その聖霊なる神は、信じる者のうちにいて下さるお方です。
 ペンテコステの日に始まった神様のわざは何世紀にもわたって、ペテロ、パウロ、その他の聖霊に満たされた人々を通して進められてきました。
 アンドリュー・マーレー博士は「人は聖霊に満たされることなしに、個々のクリスチャンや教会が、神の望まれるように生き、働くことは不可能である」と言っています。
 聖霊は、イエス様を信じ、救われた全ての人の内におり、聖霊の満たしに伴う恵みは、クリスチャンの指導者だけに与えられているものではありません。
 全てのクリスチャンは、聖霊に満たされるという特権に預かっているだけではなく、聖霊に満たされるようにはっきりと命じられているのです。 (伊藤)

「目標を目指して」 ピリピ人への手紙、3:13、14 市川副牧師 

2003年6月15日
  パウロは信仰によって救われ、義とされた自分の立場を記し、三章十二節には、キリストによって捕えられている、とあります。別に記したパウロの手紙、エペソ人への手紙二章八節には、救われたのは恵みによると、記しています。また、ヨハネによる福音書一五章一六節にはキリストが選んでくださったとあります。救われた幸いな立場に今あるのは、まさにパウロをキリストが捕えてくださったからです。そしてパウロは、この信仰の歩みは、決して完成していない、今もなお「前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目指して走り」続けていると、現在の歩みを表現しています。一三節には「ただこの一事を努めている」とあります。パウロが何を主眼として生きていたのかよくわかるお言葉です。これはまた、救われたわたしたちが歩むべき方向と目標を明らかにしています。テモテへの第二の手紙四章にあるように、パウロは、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人に与えられる義の冠を待ち望みつつ走るべき行程を走りつくしたのです。  (市川)

「一びんの油」 列王紀下4:1〜7 伊藤 牧師 

2003年6月22日
  列王紀下三章にはイスラエルとモアブの王メシャとの戦いの様子が描かれています。
 ところが四章では一転して、場面は小さな家庭の出来事に移ります。それはエリシャをリーダーとする預言者の仲間のひとりが死んで、残された妻が負債を抱えて困っているというものでした。それだけでなく、今、債主が来て、二人の子供を奴隷にする、と脅かされていたのです。
 そして、この預言者の妻がエリシャに訴えたのは、「あなたのしもべは主を恐れる者でありました」のに、夫は死に、なぜ残された私たちが、このような苦しみに会わなければならないでしょうか、ということでした。
 これに対してエリシャは「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか」と尋ねます。すると彼女は「一びんの油」しかない、と答えます。そこでエリシャは、あいた器を借りてこさせ、「一びんの油」を用い、あいた全ての器を満たして彼女の家庭と生活を守って下さったのです。(伊藤)

「時代に生きるには」 マルコによる福音書1:35〜38 篠原 貞雄 

2003年6月29日
  今朝は、教会役員の篠原貞雄兄が礼拝説教のご奉仕にあたってくださる。
ジョン・ウエスレーは「罪のほか何も恐れず、神のほか何も慕い求めない百人の説教者がいさえすれば、それがたとえ教役者であろうと信徒であろうと、そんなことは全くかまいませんが、もしそういう人たちがいれば、それだけで地獄の門を震い動かし、この地上に御国をうちたてるでしょう」と言っています。
 信徒の方々が長年の経験を生かし、また長い時間祈って準備される説教は、ひと味もふた味も違うものを感じられるでしょう。
 今朝、篠原兄はマルコによる福音書一章三十五節から、「祈りについて」みことばを取り次いでくださる。
イエス様は、夜の明けるよほど前に、
 静かな場所に行って祈ることが習慣だったようだ。それほど祈ることを重要視されていたのだ。
 私たちは、日々騒がしい世にあって生活しているが、一日の初めに個人個人が、静かな祈りの時を持って始められたらどんなに幸いだろうかと思う。(伊籐)