館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2002年11月

「われ弱くとも」 列王記上19:1〜4 伊藤 牧師 

2002年11月3日
 預言者エリヤの信仰は「わたしの仕えるイスラエルの神、主は生きておられます」という彼の言葉の中に要約されています。
 エリヤは、アハブ王の不信を悔い改めさせ、民を正しい信仰に目覚めさせるために、バアルの預言者四百五十人を相手にカルメル山で対決しました。そこでエリヤは、祈りをもって天から火を呼びくだして、イスラエルの神が生きておられるのを実証したのです。これは彼の預言者活動において際立った出来事です。
 しかし、列王記上十九章には、それまでの勇者エリヤとは別人のような、意気阻喪し、失望落胆のどん底にあえぐエリヤの姿が描かれています。
私たちの人生にも、落ち込んだり、悩んだりすることがあります。偉大な預言者エリヤもこの時そういう体験をしたのです。
 しかしエリヤは、そうした中に、苦しみ、悲しみが無ければ体験できない主の恵みが注がれていたことに気付かされるのです。
 今朝は、この事を学びたい。(伊藤)

「人生は航海」 使徒行伝27:1〜6 伊藤 牧師 

2002年11月10日
 エリコの町にザアカイという人がいました。ザアカイは取税人のかしらで金持ちでした。当時ユダヤは大帝国ローマの支配下にあり、同胞から税金を集めてローマに納める取税人は、ローマの権力をかさに着て、私腹を肥やすケースがほとんどだったようです。ザアカイは「取税人のかしら」で、取りまとめ役ですから相当の金持ちだったようです。勿論同胞のユダヤ人からは白眼視され、ザアカイも駐留のローマ人と付き合う、というようでした。
 ザアカイがこういう生活を選んだのは、多少あくどいやり方でも、金持ちになりさえすれば幸福になれる、と考えたからです。願いどおり金持ちにはなりましたが、幸福にはなれませんでした。親しい友達はなく孤独でした。罪が彼の心や生活を暗く覆っていました。
 このザアカイが喜びと幸福を見出して新しく歩き出したのは、イエスさまにお会いしたときからでした。イエスさまは、迷子のようにさ迷っていたザアカイを捜し出してくださったのです。(市川)

「神の愛に輝くために」 ヨハネ第一4:7〜12 伊藤 牧師 

2002年11月17日
  毎週私たちは、聖書の中からいろいろなお話を学びます。
 エリヤの生涯については、旧約聖書列王記上から連続して話しています。また、時々「救いについて」「聖書について」「悔い改めについて」というふうに、テーマを決めて話をします。
 今日は、「神の愛」というテーマでヨハネの第一の手紙からお話します。
 著者ヨハネは、あまりに怒りっぽい人だったので「雷の子」(ボアネルゲ)というあだ名がついていました。しかし、彼は神の愛によって、愛の人に変えらました。ですから、彼がエペソ教会の責任を持ち、晩年講壇にたってした説教は、いつも「互い愛し合いなさい」の一言だったという逸話があるくらいです。
 ヨハネは、クリスチャンが互いに愛し合うこの愛は、川の流れが泉から流れ出るように、愛である神から出ている、と言うのです。そこで、クリスチャンの生活において、互いに愛し合うことの重要性を力説して書いたのです。
 今朝は、「神の愛に輝くために」ということを学びたいと思います。(伊藤)

「キリストによる救い」 使徒行伝4:12 市川副牧師 

2002年11月24日
  ペテロとヨハネは、午後三時に、祈りのために宮に出かけました。宮の「美しの門」と呼ばれた門のそばに、生まれながら足のきかない男の人がかかえられて来ていました。施しをこうためでした。
 ペテロはこの人から施しをこわれると、イエス・キリストの名によって歩きなさい、と命じました。この人は踊りあがって、歩き出し、主の御名を賛美しました。
 この後、二人は捕えられ留置されました。翌朝、大祭司を始め多くの人々の前で尋問されました。この時ペテロは、聖霊に満たされて「この人による以外に救はない。」と、キリストによってのみ、救われることを証しました。
 足のきかない男の人は、キリストの御名によって立ち上がり、歩き始めました。罪と滅びから救われ、歩き始めるために、キリストによる救いが必要です。「すべて彼(キリスト)を信じる者は、失望に終ることがない」(ローマ人への手紙10章11節)これも聖書のお約束です。    (市川)