館林キリスト教会

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礼拝のメッセージ 2002年3月

「復活の朝」 ヨハネ福音書20:15、16 市川副牧師 

2002年3月24日
 今日から受難週が始まります。今週の木曜日は最後の晩餐、金曜日は十字架の日にあたります。
 キリストは十字架でお死にくださったのち、三日目の朝、復活なさいました。来週の日曜日は復活の記念日、イースターです。
 復活の朝、キリストが最初にお会いくださったのが、マグダラのマリヤという人でした。
 マリヤという人は、聖書に何人も登場します。キリストのお母さんのマリヤはその筆頭に挙げられるでしょう。そのほかに、ベタニヤ村に住んでいた三人姉弟、マルタ、マリヤ、ラザロの、マリヤもそうです。マリヤという名前が多いので区別のために、ベタニヤ村に住んでいたベタニヤのマリヤ、マグダラという村に住んでいたマグダラのマリヤと呼ばれていました。
 マグダラのマリヤはどのようにしてキリストを信じるようになったのでしょうか。復活の朝、最初にお会いくださった主の恵みを思わされます。(市川)

「自分の十字架を負う」 マタイによる福音書16:21〜25 伊藤 牧師 

2002年3月17日
 ペテロの信仰告白を聞いたイエス様は、ご自分が救い主であられることを示し始められました。
 その時、弟子のペテロが、人間的に考えてイエス様をいさめたのです。すると、イエス様は弟子たちの面前で「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と激しくペテロを叱責なさいました。
 そして弟子たちに、「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」とお命じになったのです。
 「自分を捨てる」とは、自分のプライドを捨て、自己否定に生きることです。「自分の十字架を負うて従う」とは、死をも覚悟しつつ従う、ということを意味したと思います。なぜなら当時、処刑される者は、自分の十字架を負わされて刑場へ引き立てられて歩かされたからです。こうして弟子たちにイエス様は、心からの信頼を持って従ってくるように言われているのです。
 今朝は、「自分の十字架を負って生きる」ことについてお話します。(伊藤)

「生ける神の子キリスト」 マタイによる福音書16:13〜16 伊藤 牧師 

2002年3月10日
 世界には、沢山の立派な書物があります。中でも全世界で読まれ、人々の人生を本当に変え、新しい希望を与える書物は、聖書以外にはありません。
 その理由は、この聖書が語っているイエスというお方のためです。即ち、イエス様こそ「生ける神の子キリスト」だからです。
 そうでなければ、聖書に書いてある他のすべての教えも、同様に意味もなく、力もなく、そして学ぶ価値もなくなるでしょう。
 でも聖書は、歴史が示すように真実な書物で、その聖書の中心的メッセージはイエス様ご自身です。
 ですから聖書は、イエス様を私たちに紹介し、私たちをイエス様のもとに導こうとしているのです。 
 聖書を通して、私たちは、イエス様に会い、交わり、イエス様を知るのです。そしてイエス様を信じることによって救われるのです。
 今朝も、イエス様が「わたしをだれと言うか」と言った質問から、私たちへの招きの声を聞きたいと思います。(伊藤)

「祝福された満足」  マタイによる福音書5:6 伊藤 牧師 

2002年3月3日
 弟子たちをみもとに引き寄せてキリストが語られた山上の説教の第四番目の祝福の言葉は、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになるであろう」です。
 「義」とは、神との正しい関係、みこころにかなった生活という意味があります。
 キリストが使った「飢え」とか「かわく」という言葉は、共に動物や人間の本能にかかわる激しい言葉です。
 動物は厳しい自然の中に生き、いつも飢えとかわきに脅かされているのです。同様に、人間もまた激しい生存競争の中で、常に心も生活も脅かされているのです。
 そこで問題は、何に対して、そのような飢えとかわきを覚えられるかです。もしそれが物質的欲望に対するだけのものであれば動物と何ら変わりがないでしょう。しかし、飢えとかわきが「義」に対してであるならば、祝福され、飽き足りるようになるのです。
 今朝は、義に飢えかわく者に対する「祝福された満足」を学びたい。(伊藤)