神の作品
駅に行ってみると、きちんとした紋付正装の人がいます。きっと結婚式のおよばれでしょう。また、スキーをかついで、4,5人でしゃべっている若者もいます。彼らはスキーにゆくのです。旅行する人はそれぞれの目的がはっきりしています。そしてその目的に合うような服装や持ち物を用意しています。ところがここにどっちつかずの格好をした人がいて、聞いてみると「どうも目的がはっきりしていないのです。服装や荷物の用意をしようにも、方針が立ちません。でもとにかく出かけようと思います」と言っている。そんな人がいたらおかしいでしょう。石川啄木の歌に「なんとなく汽車に乗りたくなりしのみ、降りてみたれど行く先もなし」と言うのがありますが、淋しい歌です。
ところが実は、せっかく生れて、せっせと人生の旅行をしているのに、人生の目的がどうもはっきりしません。ただなんとなく生きている、という風になりやすいのです。明るく楽しければ、それに気をとられて、どうにかやっていきますが、ただなんとなく生きていると言うのでは、つらいことや、苦しいことに出会うと、とても乗り切ることができません。そして最後は年をとって淋しく死んでいくのです。「人の一生って何だろう」と、どうしても考えますね。
聖書は神について教える書物ですが、同時に人生について教えるものです。新約聖書、エペソ人への手紙2章10節に次のようなお言葉があります。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」
ここに教えられてある人間とは何か。それは「神の作品」です。神がわれわれ人間を作品として造られたのは何のためか。良い行いのため、人それぞれの使命を全うするためです。次回では、その意味をもう少し詳しくお話しましょう。 (小林誠一前牧師)
ベーブルース
今年のメジャーリーグは大人気です。イチロー、松坂、松井選手たちが活躍していて、ますます楽しみです。また日本の野球もますます面白くなってきています。
ところで、野球史上最大の強打者といえばベーブ・ルースでしょう。
彼は、1895年、アメリカのバルチモア市の貧民街に生まれました。少年の頃、手のつけれない不良少年でした。17才だというのにタバコは吸うし、親の言うことは聞こうとしない。思い余った両親は、彼を不良少年の教育施設セントメリー工芸学校に入れてしまいました。けれども、何度も何度も脱走を重ね困らせました。ある時、マティアス先生が、「君はしょうがない子だ。しかし、君にもたった一つ良いところがある。自分ではわかっていないかもしれないがね」と話かけました。ふてくされたベーブ・ルースは「嘘つくな。みんなで厄介者扱いにしやがって、俺のどこがいいっていうのか」と言って、くってかかりました。「いや君がいないと困ることがある。それは学校の野球チームさ」。マティアス先生はベーブ・ルースが野球好きで、上手であることを発見していました。どこへ行っても厄介者扱いにされたベーブ・ルースは、自分が必要だというマティアス先生の言葉で野球を始めました。野球の練習をしているうちに、目に見えて上達してきました。その結果、友人たちからも信頼を寄せられるようになったということです。やがてベーブ・ルースは、1914年にプロ入りし、714本のホームランを記録する大選手になりました。
このように、先生の一言が、ベーブを励まし、生かしたということを考えさせられました。
新約聖書に、キリストが少年のお弁当「二匹の魚と五つのパン」を用いて奇跡を行い、5千人以上の人々を満腹にさせたことがありました。これはどんな小さな者でもキリストの御手の中にはいると、大きく用いられることを示しているのです。 私達も、自分は駄目な人間だと思い込んでしまうことがあります。ところが、だれにでも必ずどこかとりえがあるのです。それを神様に用いていただき、多くの人の役に立つ人生を送ることができるのです。 (伊藤英雄牧師)
ネクタイとペンダント
旧約聖書箴言の第三章に、次のようなみことばがあります。「わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。」これは聖書を勉強して、良くそれを記憶し、その教えを守りなさい、ということです。みことばは続きます。「そうすれば、これはあなたの日を長くし、命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。」一日はだれにとっても二四時間ですが、むなしい一日もあり、充実した一日もあります。聖書の教えは、私たちの心と生活を整え、一日一日の生活を、充実した、奥行きの深い、価値あるものにして下さるのです。
「命の年を延べ、あなたに平安を増し加える。」というのは、心に平安、家庭に平安、人間関係に平安を与えてくださるという意味です。そしてこれは、体の平安、つまり、健康を増進し、長生きをさせてくださる、という約束です。腹を立ててムシャクシャしたり、心配事でクヨクヨ、イライラしていると、食欲もなくなり、消化も悪くなり、血圧もあがり、安眠もできない。その上、酒を飲み、タバコをすい、徹夜マージャンでは、大根おろしで、体をすっているようなものです。神様が、聖書の教えを守って神様に従う者に対して、その心と生活、体と寿命を守り祝福してくださることは、すばらしいと思います。
次に「いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ。」首に結ぶのはネクタイ、心の碑というのはペンダントのようなものです。いつくしみは、愛と親切、まことは、正しくて誠実なことです。これは目に見えませんが、人格の中にそれが備わってきますと、目に見えぬ最高のネクタイ、ペンダントとも言うべく、これこそすばらしいおしゃれで、とても魅力的ですね。聖書の教えは、私たちを人格的に、美しく魅力的にして下さるので、すぐは見えなくても、人は次第にそれを感じ、あなたを尊敬し、あなたに近づきたくなると思いますよ。 (小林誠一前牧師)
良きサマリヤ人
聖書の言葉は、今までに多くの人の心を打って、この世界の中で大きな働きをしてきました。今日の赤十字運動は、「良きサマリヤ人」と言われるキリストの教えに感動したからアンリー・デュナンというクリスチャンによって提唱され、1864年に設立されました。
新約聖書ルカによる福音所書10章には、その有名なたとえ話、「よきサマリヤ人」があります。その部分を読んでみたいと思います。「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去りました。この間の距離は27キロメートル位なのですが、エリコの町はエルサレムより1000メートルも低いところにありました。当時、人のあまり通らないこの山道にはたくさんの強盗の隠れ家があったそうです。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが常日頃ユダヤ人に軽蔑されていた、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りか
かり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いで包帯をしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ2つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
キリストはこの話の後で、「この3人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と質問をしました。すると、「その人に慈悲深い行いをした人です」という答がかえってきました。そこで「あなたも行って同じようにしなさい」と勧められたのです。
こうした聖書の教えをアンリー・デュナンは実行した一人なのです。そしてその赤十字運動の働きは現在、戦争で傷ついた人々を救護するだけではなく、災害救護、衛生、病院経営にまで至り、多くの人々の支えになっているのはよくご承知の通りです。電話をお聞きくださったあなたもぜひ聖書を手にとって読み、キリストの教えを実行して見てください。有意義な人生を見いだせると思います。 (伊藤英雄牧師)
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