希望のダイヤル
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 伊藤英雄牧師
2008年5月25日
ころころ
 小林誠一前牧師
2008年5月18日
最強のガードマン
 伊藤英雄牧師
2008年5月11日
キリストとユダ
 小林誠一前牧師
2008年5月4日

心の森林浴
 木々の緑も深まり、わたる風もさわやかでわたしたちの心を和ませてくれる良い季節になりました。この時期、森林浴ということがはやります。森林浴とは、森や林を散策し、木々が発散する香りや殺菌物質を浴びて、心身をリフレッシュしようという自然浴の1つです。森林浴の言葉は1982年に秋山智英・林野庁長官が提唱したのが始まりだそうです。植物が出すフィトンチッドという殺菌物質は人間に対して一定のプラス効果が期待されるといわれ、神山恵三教授が、その効用を医学的に実証してから、全国的な広がりを見せています。
  旧約聖書イザヤ書40章31節には「主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のようにつばさをはってのぼることができる。」という言葉があります。新しい力は神様を待ち望むことに、すなわち信仰によって与えられることを教えています。鳥の王様と呼ばれる鷲は、疲れを知らず暴風の中でも飛んで行きます。けれどもこの鷲にも疲れることがあります。そのとき鷲は深い森の中へ入って行きます。そして羽を全部たたんで長い間そこにとどまります。古い羽が抜けて、やがて新しい羽が生え揃うと、翼を大きく広げ、天をめがけて飛んで行くと言います。
 私たちもこの世にあって問題や悩みがないわけではありません。しかし神様に信頼してお祈りして行くとき、過剰に恐れたり、騒いだり、あれやこれやと心を乱すことから不思議と守られていくのです。植物が水分をとると急に元気になることがあります。空腹な人が食事をとると元気がでて、力がわいてきます。同じように、聖書の言葉を蓄えていきて行くときに、それは心に生きるエネルギーや知恵となって、私達の人生を生き生きと歩ませてくれます。さわやかな緑が目を休ませてくれるこの頃に、あなたの心の森林浴のために是非聖書を学んでいただきたいと思います。
 日本の財閥と言われた三菱の創業時代に大きな働きをした荘田平五郎さんは、熱心に聖書を読みながら、商売の道に励んだ人です。彼は「聖書には金儲けの秘訣はないかも知れない。しかし聖書には、金儲けよりも重要な知恵が山のように隠されいる。だから、聖書を読みこなす人には行き詰まりはない」とも言っています。 (伊藤英雄牧師) ころころ
 旧約聖書箴言の第4章に「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」というみ言葉があります。油断することなく守らなくてはならない大切なものは沢山あります。お金は金庫に入れたり、銀行に預けたりして大切に守ります。家にもカギをかけます。また自分の健康を守るために、私達はいつも注意をし努力をします。それらは私達の生活の土台となる大切なものだからです。
 ところが心はもっと大切です。ここに「命の泉は、これから流れ出るからである」と書いてあるのは、心は生命と生活の源泉、すなわち「源である」ということです。「あの人は良い人だ」と言う場合、器量が良いのとは別でこれは心の問題です。「あれは腹黒い人だ」と言われながら、色白の人だっているでしょう。パスカルは「その人が幸福だと感じない限り、決して人は幸福ではない」と言いましたが、人間の幸福さえ、その人の心から流れ出すと言ってもよいのです。ところが、大切なものを守るのにとても注意深い人間が、一番大切な心を守ることに、うっかりしていることが多い、と言うよりも、実は自分の心を守るのは難しくて、守りあぐねている、というのが実状ではないでしょうか。本当にこの大切な心が、実はなかなか不確かなので、ころころいつも転がっていくので、心と呼ばれていると言われるくらいです。
 そこでクリスチャンは、自分の心を守って頂くために、聖書を学び、お祈りをするのです。神様は人間も、人間の心もお造りになった方ですから、私達の心をきよめ、守り、また助けを与えてくださるのです。さしずめ、お金は銀行に、身体の病気はお医者さんに、そして心の問題は教会に、ということでしょうか。
 「主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが、あなたの前に喜ばれますように」詩篇19篇14節  (小林誠一前牧師)
最強のガードマン
 現代は不安と危険に満ちた社会だと言われます。そこで安全に身を守るためのいろいろな社会制度が発達しました。医療保険、年金制度、労働災害保障、生活補助の制度、社会福祉事業など充実してきています。また民間にはガ−ドマンというような警備保障制度などもあります。このような制度は私達を外側から保護してくれますが、肉体の病や心の中の誘惑などから私達を安全に守ることは出来ません。私達が生きていく時に内側から助けてくれる本当の助けがほしいと思ったことはないでしょうか。
  こんなお話を読んだことがあります。
 長い汽車の旅をしている人がいました。ふと気がつくと、前の座席に10才くらいの少年がいます。こんな小さな子供が1人で旅をしているとは感心だなあと思いつつも、寂しくないのだろうかと声をかけてみたそうです。「坊や一人旅のようだけど寂しくないの?」すると、少年が答えました。「寂しくないよ」「どうして」「だってこの汽車の運転手はぼくのお父さんだもの」。お父さんが同じ汽車に乗っていたのです。しかも乗っている汽車の運転手だというのですから寂しいこともなく、楽しい旅を続けていたのです。
  このように、人生はよく旅にたとえられます。わたしも平凡な人生を歩んでいる者でひとりでありますが、思い出せばいくつかの困難や危機に直面したことがあります。そして、その度に、神様の守りと助けがあったことを思います。
 旧約聖書詩篇121篇に「わたしは山に向かって目をあげる。わが助けはどこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足を動かされない。あなたを守る者はまどろむことがない」とあります。
  私達の人生の旅において、天地を創造なさった神様がおられ、助けて下さるというのです。この神様はいつも信じる者達とともにいて、慰め、励まし、守っていてくださるという約束です。神様があなたのガ−ドマンであるとは、何と素晴
らしい保障ではないでしょうか。あなたも神様を信じ、いつも神様に守られている平安な生活を始めて下さるようお勧めいたします。  (伊藤英雄牧師)
キリストとユダ 
 有名なレオナルド・ダビンチの描いた、最後の晩餐という画は、これも有名で、世界の宝です。キリストが十字架の前夜、十二名の弟子たちと一緒に、最後の晩餐をおとりになった、その場面を描いたものですが、今は大分古くなっていたんでいますが、今もイタリー、ミラノの修道院の壁画として、そこの食堂を飾っています。(長い間の修復が終わって、昨年からきれいな壁画になった相です)
 レオナルドは、この画の中の、キリスト像のモデルをさがして大分苦労をしました。そして、ある教会の聖歌隊の青年が気にいってモデルに使いました。この青年は立派な顔をしているだけでなく、まじめで、健康で、声もよくて、本当に魅力的な青年だったのです。レオナルドは、彼の顔をたくさんスケッチして、それから、キリストの顔を描き上げました。
 しかしこの絵はなかなか完成しませんでした。最後にユダの顔、あのキリストを裏切り、お金を受け取って先生を敵の手に売り渡した、憎まれ者のユダの顔を描くまでに、十年以上の月日が流れました。レオナルドは今度は、ユダのモデルを見つけるのに骨を折りました。なかなか見つからないのです。
 あるとき町角で、一人の乞食に金をやりました。乞食が金を受け取る時の、いやしい、不潔な、よくばりな顔が、ユダのイメージにピッタリだったので、この乞食をつれて来て、モデルに使いました。
 驚いたことに、この乞食は描きかけの最後の晩餐の画を見ると言いました。「先生、まだこの画は完成しないのですか。私は昔、このキリストのモデルになった男です。あれから、少しずつ誘惑に負けて、悪いことをおぼえてダラクしてしまったのです。ああ同じ俺が、今度はユダのモデルになるなんて」と言って悔しそうに泣き出しました。
 これは一つの物語です。我々も小さな誘惑、小さな罪から、だんだん自分をダメにしてしまうようなことがないように、よくお祈りをして、神様に守って頂きましょう。  (小林誠一前牧師)
     
 
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