希望のダイヤル
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生きがい
 伊藤英雄牧師
2008年3月30日
 小林誠一前牧師
2008年3月23日
上を向いて歩こう
 伊藤英雄牧師
2008年3月16日
ナイアガラの瀧
 小林誠一前牧師
2008年3月9日
人生の刈り込み
 伊藤英雄牧師
2008年3月2日
生きがい
 科学者の調べたところによると、私たちの脳細胞の90%ぐらいは、一生使われないそうです。大多数の人は、その才能の大半を開発しないままに死んでいくというわけです。失敗して恥をかくといけないと考え、災難に合わぬよう苦労しないよう、いやなことはなるべく他人に押しつけて、ただ無事、無難であることを願うだけで、結局なにもしないで生涯を終わってしまうなら、いったい何のために生まれて来たか、わからないような一生ではないでしょうか。
 「人は使命とともに生まれる」ということばもあるくらいで、人間はひとりひとり神様から使命を与えられています。それがこの世に生まれて、生きている人間の意義なのです。
  新約聖書のヨハネによる福音書9章に、イエス様が道を通っておられる時、生まれつきの盲人の人に出会いました。弟子たちは、イエス様に尋ねました。「この人がうまれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それとも両親ですか」。するとイエス様は「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」と答えました。それは、どのような境遇、事情にあっても、神を信じ、救い主を信じて、自分がもっているもの、自分に与えられたもの、自分に出来るものを、自分の事だけでなく、他人のために、一生懸命やっていくときに、神様が一人一人に与えられた、生き甲斐を発見する事ができるという事を教えられたのでした。
  ヘレン・ケラ−の先生であるサリバン女史は「もし、この少女を救うことが出来たら、私はこの世に生まれてきた価値がある」と考えて、その仕事を引き受けたということです。以来48年間、サリバン先生は自分の名誉も地位もすてて、ひたすらヘレン・ケラ−をわが子のように、妹のように愛し、涙と祈りのうちに育て上げたのです。やがてヘレン・ケラ−がテンプル大学で博士号を受けた時、サリバン先生にも博士号が送られました。 (伊藤英雄牧師) キリストの復活
先週は受難週で、イエス・キリストが、私たちの救いのために、十字架にかかって下さった、キリストの受難の記念日を守りました。
今日はイースター、復活節と言って、そのキリストが死から復活された記念日です。世界中の教会はこの日を祝っています。あの十字架の日の夕方、婦人の弟子たちが中心になって、冷たい死骸となり果てたキリストの体を、十字架から取りおろしました。そして泣きながら、お体の血やよごれをふき取って、体中に薬を塗り、白い布でキッチリと巻きしめました。
キリストは妻子もなく、自分の家さえありませんでしたから、勿論お墓の用意はありません。ところが、ある信者が自分のために用意してあったお墓を借してくれたので、とりあえずそのお墓に葬りました。お墓と言っても岩に掘った横穴です。入口には石をころがしてふたをしておくのです。これらはその地方の葬りの習慣でした。この時の弟子たちの気持ちは暗黒と絶望でした。つまり、神様の力と善の力が、この世の中の悪の力に圧倒されてしまったのです。そしてキリストはもう、愛することも教えてくれることもできない、冷たい死体となり、まもなく土の中で腐れはててしまうのだろうと思われました。
さてその三日目、つまり復活節の朝早く、女たちはお墓参りしようと、花や香水を用意して出かけました。ところがお墓に行ってみるとお墓はからでした。女たちの一人、マグダラのマリヤは、墓のそばで一人泣いていると、今朝復活したキリストが栄光のお姿でお近づきになり、「女よ、なぜ泣くか」とおっしゃっいました。マリヤはどんなにうれしかったでしょう。それからキリストは大勢の弟子たちに、順々にお会いになりました。中には五百人以上の集会もありました。実は、これがキリスト教の始まりです。キリストは今も永遠に生きていて、信ずる者を救い、祈る者を、守り、助け、導いて下さるのです。
あなたもキリストを信じて下さい。 (小林誠一前牧師) 上を向いて歩こう
 坂本九の代表的ヒット曲に「上を向いて歩こう」という歌があります。
ところで、私達の人生も「上を向いて歩きたい」ものです。ある牧師のところに、一人の婦人がやってきて次のように話しました。
 「私は絶望しています。何をする気もありません」。それを聞いて牧師は「何か病気で苦しんでいるのですか」と尋ねました。「いいえどこも悪くありません」。「では、ご主人とうまくいっていますか」と尋ねました。「はい、とても優しい、いい主人です」。こんなやりとりをしながら、時間をゆっくりかけ、この婦人が絶望している原因を尋ねたそうです。そののち、この牧師は言いました「あなたは健康も、夫婦仲も円満、能力も経済的生活においても絶望することはひとつもありません。ただ、自分の心が、自分は駄目だと思っているようです。元気を出して下さい。神様はあなたに期待しておられます」。それを聞いて婦人は、「本当にそうでした」と元気を出して家に帰ったということです。
 ギリシャ人は人間をアンスローポスと呼びました。これは「顔を上に向ける」という意味から来た言葉だと言われています。人間は上を仰いで神に祈り、神と交わりをするからだと思います。しかし多くの人間は、神様に背いて生活しています。こうして人間は、罪を犯した為に神様との交わりが断たれているのです。けれども愛の神様は、あなたが神様のもとに立ち返り、神様との交わりが回復でるように、神のみ子イエス・キリストを私たちの所に送り、十字架の死によって、神との交わりを回復する道を開いて下さったのです。
 私も教会に来て神の言葉である聖書を知るまでは、劣等感で悩みました。自分のような者は役立たずの人間だと思い、神に愛せられる、救われる資格などないと思っていたのです。しかし聖書に「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」とあるように、私達一人一人がかけがえのない大切なものであることを知りました。そして、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架を信じました。その時から確かに神様は、私をも「上を向いて歩く」人生に変えて下さいました。あなたも是非聖書を手にとってお読み下さい。  (伊藤英雄牧師)
ナイアガラの瀧
 昔、木村清松という牧師さんがアメリカへ行って、有名なナイアガラの瀧を見ていました。
 すると一人のアメリカ人が
 「どうだい大きな瀧だろう。小さい日本にはとてもこんな大きな瀧はないだろう」と自慢しました。
 そこで負けず嫌いな木村牧師が
 「ああ、ナイアガラの瀧は本当に大きくて立派だ。しかし、これはもともと私のお父さんの物なんですよ」と言ったので、アメリカ人は驚いて
 「ハテナ、この人は日本人だと思っていたが、案外昔この辺を領分にしていた、インディアンの子孫か何かで、そう言うのかも知れない」と思いました。
 しかし、よく聞いてみると、この男は木村という日本人の牧師で、お父さんというのは、彼の信じている「天の父なる神様」のことだ、と分かって、すっかり感心しました。
 ところがこのアメリカ人も、近くの町の牧師さんだったのです。そこで
 「私の教会に来てお話をして下さい」という事になりました。
 やがてこの教会の前には大きな看板が出ましたが、それには
 「今日から、木村清松という日本人の牧師がお話をする。彼の父親は、ナイアガラの瀧の持ち主だ」と書いてあった相です。
神様は、私たち人間にとって、天のお父様です。世界万物も、私たち人間も、この神様が造って下さったのです。そしていつも守って下さるのです。
 だから神様を信じ、神様にお祈りし、神様に従う生活は、本当に安心です。それゆえキリストは次のように教えて下さいました。
 「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。…
  あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。… 一日の苦労は、その日一日だけで十分である」マタイによる福音書6章25、32〜34節  (小林誠一前牧師)
人生の刈り込み 
  早春の今頃は、各地でリンゴの木の枝の刈り込みが行われる様子を新聞やラジオ、テレビで見たり聞いたり致します。昔からりんごは「1日1個のりんごで医者知らず」といわれているくらい健康にとてもよい果物です。そのリンゴの実を豊かに実らせ、秋においしいりんごの実が出来るように今から剪定作業をするのです。
 新約聖書、ヨハネによる福音書15章に「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。私につながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れして(剪定すること)これをきれいになさるのである」と書かれています。だれでも、充実した、豊かな実を結ぶ、生き甲斐のある人生を望んでいます。しかし、なかなか実を結ぶことが出来ないのです。ぶどうの木もりんごの木も、ほおっておけば無駄な枝が生え養分がそちらにとられてしまうように、短い人生とわかっていても無駄が多い、空しい生き方をしてしまうのです。キリストは人生の手入れ、即ち刈り込みを大切にするように勧めているのです。
 ある時、キリストはベタニヤ村の仲の良い兄弟の家庭を訪れました。キリスト
は大事な話があったので、接待は簡単でよいと言いました。ところが、世話好きのお姉さんのマルタはキリストとお弟子さんたちの接待のために忙しくしていました。妹のマリヤは、キリストのそばに座って、お話に耳を傾けて聞いていました。姉のマルタは、キリストに向かって「妹に手伝うようおっしゃって下さい」と苦情を言いました。その時、キリストは答えて「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや1つだけである。マリヤはその良いほうを選んだのである」と言いました。私たちの人生に「無くてならぬもの」は神のことばを聞いて、生きることです。そこにだれでも豊かに生きることのできる秘訣があります。神のことばを聞くために、私たちの生活の余分なところを、神様に刈り込んでいただき、豊かな実を結ぶ生活を、あなたも今からお始めになって下さい。  (伊藤英雄牧師)

     
 
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